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生明慶二 インタビュー


(1)

食べるためには「音楽」しかない


生明慶二氏喫煙中
「医者には『タバコを吸うな』って言われてるんですよねぇ」
と言いながらタバコを吸う生明氏。




 ―――生明(アザミ)というのは大変珍しいお名前ですが、何か由緒ある家系でいらっしゃるのですか。


 由緒もへったくれもないです(笑)。

 昔の東京の電話帳には「読めない苗字」というのが頭にくっついてましてね。「ア」からはじまるもんだから最初のところに「生明(アザミ)」っていつも出てましたよ(笑)。
 だいたい「生(ア)」とか「明(ミ)」とかっていうのは万葉仮名ですからね。だから、まあ、古い時代のものだとは思いますけど、由緒みたいなのは本当に無いですねぇ(笑)。



 ―――お生まれは神奈川県で、やはり小さい頃から音楽に興味を持たれていたのでしょうか。


 音楽に興味ですか?子どもの時は興味なんか無いですよ(笑)。

 いやぁ、要はね、こんなこと自分で言うのはおかしいんだけど、僕は学校の成績っていうのがバカに良かったんですよ。“バカに良かった”っていうのも変だけど(笑)。でも、音楽だけは成績が悪かったんです。あぁ、僕が子どもの時は「音楽」じゃなくて「唱歌」の授業って言ったんですけどね。
 そしたら、家に来ていたお手伝いさん、この人はおふくろよりおっかないんだけど(笑)、「なんで点数が低いんだ!」って小学校に乗り込んでったわけですよ(笑)。それで先生に問いただしたら「声がガラガラで歌がひどいからダメなんだ」って言われたらしいんです。
 もうそのお手伝いさんが怒り狂ってね(笑)。どうするかと思ったら、上野の音楽学校から先生をみつけてきて「ピアノを習え!」って言うんですよ。



 ―――歌ではなくピアノを習えと。


 つまりね、そのお手伝いさん曰く「音楽というのは歌だけじゃない」ってわけです。何やったって音楽なんだからね。「歌がひどいから音楽の点が悪いというのはおかしい!」ってわけですよ。

 でもこっちはもうイヤでイヤでしょうがなくて(笑)。だいたいみんなあの頃はピアノなんてのは女がすることで、男だったら兵隊になるのが一番すごいことだと思ってたわけで。
 だからレッスンの日になるとすっ飛んで逃げるんだけど結局は捕まって(笑)。無理やりやらされてましたね。そうすると「ピアノ弾いてる!」ってみんなにいじめられて(笑)。



 ―――嫌々ながらもピアノは続きましたか。


 少しは続いたですよ。しょうがないからね(笑)。まあ本当に初歩の初歩を弾いてたわけですよね。
 でもそのうち戦争が激しくなってきちゃったら、もうそれどころじゃなくて。ピアノの音なんか鳴ったら「非国民」になっちゃうわけだから。

 結局、住んでた家は戦争中に爆弾でぶっ飛んで、親爺も早く死んじゃったもんだから、戦後はとにかく食っていくことを考えなきゃいけなくなったんです。それじゃあ自分は何で食えるかって考えてみたら「音楽」しかないわけですよ(笑)。だからしょうがない、音楽をやろうじゃないかと思って。
 でも音楽をやるっていっても日銭が入る仕事じゃないと生きていけないわけですよ。だから、その頃東京駅で「立ン坊」っていうのがあったんで、それをしたんですよね。

 今じゃ「立ン坊」なんて想像つかないと思うけど、当時、東京駅の乗車場じゃなくて降車場の方に昼過ぎになると音楽家がいっぱい集まるんです。降車場には荷物の預かり場があって、大きな楽器はそこに預けていた、つまり楽器の保管場だったんですね。そうするとそこに進駐軍のトラックがダァーッと来て、その場でジャズのグループを作って、朝霞のキャンプだとか、熊谷のキャンプとか、もうとんでもないところまで行かされる。
 トラックの荷台に乗せられるわけだけど、当時、舗装してる道路なんか無いから、走りだすと濛々と砂煙が上がるんですよ。だからみんな砂煙がかからないように袋を被るんです。そんな状態で乗ってました。
 “「立ン坊」の親方”っていうのがいるんだけど、やっぱり戦後なもんだから軍楽隊から来た人達がほとんどで。その親方がグループを決めていく。中にはそれまでに顔見知りになってて、ある程度まとまってるようなグループもありましたね。



 ―――そのグループではピアノを弾かれていたんですか。


 いや、その時はねぇ、コントラバスを弾いてたんですよ。

 僕が「立ン坊」なんかやる時は、樋笠雅也っていう、後に作陽音楽大学の学長やって今は引退して名誉教授になってますけど彼がピアノを弾いて、あと、千賀かおるの《真夜中のギター》を作曲した河村利夫というのがクラリネットを吹いて、5人ぐらいのバンドをやってたんですよね。

 コントラバスは自分で練習したり、当時、武蔵野の‥‥、音楽大学じゃなかったなぁ、まだあそこが専門学校だった頃にそこに行って弾いてたんですよ。学校の生徒に成りすまして(笑)。



 ―――成りすまして?!


 さっきのバンド組んでた河村だとかがそこの学生で、レポートとかを僕が全部書いてやって、一緒に学校に行くんだよね(笑)。

 だいたい戦争が終わった直後にコントラバス科に入ろうなんて人いないでしょ(笑)。ギター持ってきて「ドレミファソラシド」って弾いたらコントラバス科に入れたっていうんだから(笑)。
 中島先生という素晴らしいチェロの先生がいて、その先生にコントラバスのことを教えてもらったんですよ。
 あと、木琴だとか学校にある楽器を弾かせてもらったりだとか、他の授業にはあんまり出なかったけど、オーケストラについての授業というのがあって、それにはしっかり学生に成りすまして出席して(笑)。



 ―――バレなかったですか?


 最後までバレなかった。
 先生から「君、最近、出席が悪いねぇ」なんて言われるぐらいなんだから(笑)。

 そんな感じで時々学校に行ったりして、日雇いの「立ン坊」をバンド組んでる連中としばらくしてたんですよね。

 「立ン坊」のギャランティは、進駐軍のキャンプで仕事したからっていってもアメリカ軍から出るんじゃないんですよ。全部日本の特別調達庁(現・防衛施設庁)からお金が出る。それでそのうちバンドの演奏の腕前によってAクラス、Bクラス、Cクラスとかってだんだんクラス分けが出来てきて、上のクラスになるほどギャランティが高くなるわけですよ。「スペシャルA」っていうのが一番上等なお金をもらえる。
 だからやっぱり演奏が上手くならないと食えないわけで過酷な商売でした。それでも僕が入ってたバンドは最後に「スペシャルA」までいったですよ。



 ―――その間は、ずーっとコントラバスを弾かれていたのですか。


 基本はコントラバスを弾いてたんだけど、途中でヴィブラフォンになったんです。
 ただ、ヴィブラフォンは持ち運びが非常に難しいもんだから、コントラバスの方が移動する時にはやっぱり楽なんですよね。だからコントラバスとヴィブラフォンを使い分けてました。
 その頃になるともう世の中もだんだんと落ち着いてきたんで、それからはいろんなバンドに入って演奏しましたね。







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