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坂本龍一
―――生明先生はルネッサンス音楽のバンドにも参加されていたのですか。
あぁ、それはねぇ、やってましたよ。
最初はね、友達のレコード会社のディレクターにルネッサンス音楽を録音したらどう?って提案したら、そりゃいいねってことになって、関西にいたルネッサンス音楽の演奏グループを大阪で録音することになったんだよね。当時の日本ではバロックより後の音楽は知られてたんだけど、それより前の音楽のことっていうのは知られてなかったですからね。
あくまで僕は口利きの立場でその録音に立ち会ってたんだけど、そのうちなんだかダルシマー弾いてくれっていうから弾いちゃったんですよ。突然僕の演奏なんかが入っていいのかなぁって思ったんですけどね。
しばらく経ってからそのグループが関西から東京公演のためにやって来て石橋メモリアルホールでコンサートをやった。結局、僕もまたダルシマーで参加することになっちゃって。
その時の観客の中に坂本龍一君がいたわけですよ。
コンサートが終わった客席で周りのお客さんたちからサインをお願いされてる人がいるんだよね。それが坂本君。不思議なこともあるもんだなぁと思ってね。若い人にとってはこんなつまんねぇ音楽のコンサートに何で来るんだろうって(笑)。そしたら楽屋にまで来て
「一緒にやりたい」
ってわけだよね。
「あんた何やりたいんだ?」
「ポルタティフ・オルガンを弾きたい」
って言うから、そりゃいいねってことになって、たしかもうYMOを辞めて坂本君単独のアルバムを出してた頃だったと思うんだけど、坂本君と二人で4、5日ぐらい泊まり込んで一緒に飯を食ったりしてアルバムをつくったんですよ。「エンド・オブ・エイシア」
っていうね。
1981年のことだから、もう古い話なんだけど(笑)。 この仕事そのものは日本コロムビアのレコーディングでディレクター・制作は川口義晴さんでした。
ダルシマーは弦を撥で打って演奏するわけだけど、この時は弦をはじいて演奏するプサルテリウムっていう楽器で僕もまた参加することになって。
レコーディング本番は2日間の予定で宝塚のベガホールでの録音でしたね。坂本君の新たな書き下ろしの曲もあったりで、確か4、5日ぐらいスケジュールを空けて、前半は宝塚近辺の宿屋に泊まってたんだけど、その日本旅館のすきま風っていうのがすごくて(笑)。後半は「引っ越そう!」ってことで、別のホテルに坂本君と二人で移動した記憶があります。
その後何年か経ってから『ラストエンペラー』の台本が坂本君のところに送られてくるんだよね。
そしたら坂本君から連絡が来て、
「生明さん、甘粕大尉って知ってますか?」
「知ってるよ」
「自分はよく知らないから教えてください」
って音楽のことそっちのけで、ずーっと甘粕大尉の話ばっかりして(笑)。
その後、彼は『ラストエンペラー』のテーマ曲で非常に苦労するわけですよね。なんべんテーマ曲書いてもあれもダメこれもダメで。つまり、一生懸命書きすぎちゃうとやっぱり映画音楽にならない。
『ラストエンペラー』の音楽レコーディングには僕は参加してませんけど、坂本君とはそういう思い出がありますねぇ。
「生明慶二 インタビュー」
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