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父の想い出など
カンタータ「大いなる故郷石巻」CD化に寄せて


 父は日々の商いの傍ら、早朝にまた家族が寝静まった後、小杉太一郎先生に作曲して頂くことになっているカンタータ「大いなる故郷石巻」のテキスト作りに没頭していた。あれは、いまから40年ほど前のこと。当時、中学生だった私は今でもはっきりと、その父の机に向かう後ろ姿を覚えている。早稲田で演劇を専攻していた父は長男でとりわけ祖母を慕っていたためか、夢を封印し、家業(酒屋)を継いだ。《この道しかない春の雪ふる》。山頭火のこの句が書かれた色紙を父は本棚の隅にひっそりと置いていた。
 静かなその父はしかし、故郷に熱い心を注いだ。その眼差しは家族に向けられたものとほぼ同じだったように思う。いずれ故郷を去ることが分かっていた息子(私)に父は故郷の海をよく見せた。美しいリアス式の海岸線をいったい何度、私は父の車で走ったことだろう。
「ここが月の浦だ」。
支倉常長がローマに向けて出帆した美しい入り江。
「あそこでクジラを解体する」。鮎川ではそのクジラを狩る漁師たちの姿を私に伝えた。
いつも、帰り際には、「女川」でその日の食卓に乗る魚を父は選んだ。その父の嬉しそうな表情を忘れない。売り手と買い手両方が湛える満面の笑みは、この土地の自然の恵みと人の心の豊かさ故のものだっただろう。

 今回の災害でその自然も人もたくさん失われてしまった。私自身も失われた記憶の風景に言いようのない無力感を感じ、慟哭した。しかし、父が今いれば、こう言った筈だ。
「海は大丈夫だ。そしておれたちの心も!」

 この辛い日々を乗り越えるために、カンタータ「大いなる故郷石巻」は40年も前に作られていた。そういえるかもしれぬほど、音楽はしなやかでちからづよく、やさしい。小杉先生もまた父同様、故郷をこよなく愛しておられたことをこの作品は教える。

 中学生の頃、父に連れられて世田谷にあった小杉太一郎先生のお宅を初めて訪れたとき、先生は私にストラヴィンスキーのオーケストレーションの素晴らしさについてお話し下さり、そしてラヴェルの「マ・メール・ロア」のフランス製のポケットスコアを貸して下さった。自信に満ちたその佇まいに、作曲家とはこういうものかと思った。その後、私が作曲を生業とし、またラヴェルを研究していることを、この場をお借りして先生の御霊に慎んでご報告申し上げたい。


石島 恒夫 次男
作曲家・桐朋学園大学教授
石島 正博

石島恒夫氏
石島 恒夫氏





カンタータ石巻義援金プロジェクト


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