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山内弘さん
山内弘さん


 作曲家 山内正 ご長男の山内弘さん。
 CD「山内正の純音楽」制作に寄せて、初めて父親への思いを綴ってくださいました。

【CD「小杉太一郎の純音楽」報道記事】


父・正のこと

山内弘



 35年というと、同じ芸術家として父がよく話題にしていたモーツァルトや芥川龍之介の生涯に等しい年数であり、時間のたつのを速く感じるとともに、未だに父とのやりとりは昨日のことのように思い出されます。

 亡くなったのが突然だったので、当時の私は父の死を内面では受け入れられず、夢の中には遺影も仏壇も登場せずに、その元気な姿で何度叱咤激励されたか計り知れません。家で仕事をする人だったため、サラリーマンの父親を持つ息子よりは、一緒にいる機会が多かったように思います。芸術、文化、政治、歴史、幅広い話と訓示をしてくれました。雷親父が当たり前の時代で父も私にとってはその典型でしたが、厳しさと優しさ、真面目さと気まぐれさが同居していました。唯物史観論者ながらお墓参りをまめに行う信心深い一面もあり、矛盾がある気もしましたが、本人の中では一貫性を持っていたのでしょう。

 音楽ではとにかくベートーヴェンを敬愛し、作品はもちろんのこと権力と戦いながら人類愛を音楽で表現した、その生き方を賛美していました。
 アルコールは幅広いアイテムを嗜み、体にまわると饒舌になったものです。一人で居酒屋に入り隣に座った人と盛り上がって飲み進め、ついつい奢ってしまい、手持ちのお金が足りなくなって私が届けたこともありました。
 スポーツ好きで大の巨人ファンであり、アンチ巨人だった私とはあえて巨人戦ではなくオールスターゲームを数年に渡って見に行きました。私の少年野球時代にはバッティングについて身振り手振りで教えてくれました。「腕だけでなく、足をどう使うかがポイントなんだ」という言葉とともに。

 勤労動員で体調を崩したり、また空襲の中で命からがら助かったり、戦争体験者として平和に対する思いは強く、「自分は戦争を知らないから一度体験してみたい」と私が言うと烈火の如く怒られました。国中が軍国主義一辺倒だった時期にも戦争への疑問を周囲に漏らしていた、正はそんな少年だったようです。手がけて来た音楽作品にも反戦平和を意識したものがときおり見受けられます。

 父が亡くなったときに私は16歳でした。祖母のさくは健在で「正が長生きしたら、弘と大人同士の会話を楽しめたのに本当に残念だね」とよく言われました。ただ伯父の久に「正が亡くなったのは残念だけど、生きていたらいたで親子喧嘩も相当したろうな」などと冗談めかして言われたのも思い起こします。最期の1年間、私の反抗期と重なり諍いが多く、私を怒ることで体に負担がかかり寿命を縮めたのではないかと父が亡くなった直後は悔やみました。祖母と伯父の発言は対照的に聞こえますが、どちらも正と身近に接した人の言葉としてリアリティを感じます。

 父と私が最後に一緒に出かけたのは、お盆の時期の墓参りだと記憶しています。ある居酒屋で、初めて私は質門しました。ヴァイオリニストを目指して挫折した日のことを。ただ父は素っ気なく、「そんなこともあったけれど、結果的に作曲家になれたわけだから、怪我をしたのがちょうど良かったようなものさ」と答えました。本心だったかどうかは分かりませんが、覆水盆に返らずの言葉通り、とにかく「たられば」を言うのを嫌う人でした。夏休みの最終日に宿題を溜めた私が「もっと早く始めれば良かった」とつぶやくと、「口が裂けても、それは言うな」と言われました。終わったことを引きずらず、常に前を向いて生きることを心がけた人生だったのでしょう。またどんな質門に対しても明確な返答をしてくれる人で、青年期の私は物事に迷ったとき、父に聞いたらどう答えられるかを想像し、決断できたことが何度もありました。

 戦後70年、父が亡くなって35年、この節目の時期に当初は思いもよらなかったCD発行という提案をしてくれたSalidaの出口氏に感謝するとともに、変わりゆく日本へ向けて父がメッセージを与えたくて、私達を動かしたのではないかと思えてなりません。「芸術はそれ自体で完結するのではなく、その時々の社会や人類の歴史に貢献しなければならない」「戦争や足の引っ張り合いのある人間社会など、まだ未熟な段階だよ。これを変えていかなければならない」父の声が聞こえてくるようです。



(山内正・長男)






CD「山内正の純音楽」収録作品


CD「山内正の純音楽」


作曲家 山内正 研究活動




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