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シレトコ半島の漁夫の歌〔合唱版〕(1960/1966)
A SHANTY OF THE SHIRETOKO PENINSULA for Male Chorus & Orchestra

白井暢明 指揮 北海道大学合唱団 北海道大学交響楽団

1966年11月3日 札幌市民会館 ※ モノラル録音



  1966年、北海道大学合唱団は、同団の創立50周年を記念して、北海道大学卒業の作曲家 伊福部昭に作品を委嘱。

 伊福部は、かつてバスとピアノのために作曲した更科源蔵の詩による《シレトコ半島の漁夫の歌》(1960)の男声合唱・管絃楽編作でこの委嘱に応えた。編作にあたり、作業は単純な編曲に留まらず、前奏や中間部を原曲より長くし、部分によっては和声を変更するなどの改訂が加えられている。

 作品は、1966年11月2日および3日に開催された「北海道大学合唱団創立50周年 第15回定期演奏会」(於:札幌市民会館)で、合唱団員である白井暢明の指揮、北海道大学合唱団、北海道大学交響楽団により初演された。

 翌1967年1月13日には、東京・虎ノ門ホールで、白井暢明 指揮、北海道大学合唱団、青山学院管弦楽団により演奏されている。

 Salida・CD「伊福部昭の純音楽」では、録音が残されていた
1966年11月3日の演奏を当時作品委嘱のため伊福部宅に赴いた北海道大学合唱団員、指揮者 白井暢明氏、北海道大学交響楽団の皆様の許諾を得て初CD化を実現。

 1961年2月9日、「木内清治バスリサイタル」(於:第一生命ホール)で木内清治(ステファーノ・木内)の独唱、大島正泰のピアノ伴奏により初演された原曲について、伊福部本人が記しているので、以下に「作曲者の言葉」として掲載する。

【作曲者の言葉】


 作者は、戦前、数年の間、北海道東端の寒村に生活したが、その周辺の風物、特にシレトコ半島は、今なお拭い難い印象をとどめている。
 古い知人である更科氏のこの詩に接した時、深い共感にうたれ、ひそかに旋律化を試みたのであったが、意に満たなく、そのままになってしまった。
 後れて、1960年、同郷のステファーノ・木内君がイタリーから帰られて、何かバスの歌曲を、と云う依頼を受けた。このことが、改めて稿を起す契機となった。
 なお、中間のアイヌの漁歌は、原作には無いが、作詩者の許を得て挿入したものである。

――――――――

更科 源蔵――

死滅した侏羅紀の岩層(いわ)
冷く永劫の波はどよめき
落日もなく蒼茫と海は暮れて
雲波に沈む北日本列島

生命(いのち)を呑み込む觸髏の洞窟()
燐光燃えて骨は朽ち行き
灰一色に今昔は包まれ
浜薔薇(はまなす)散ってシレトコは眠る

暗く蒼く北の水
海獣に向う銃火の叫び
うつろに響いて海は笑い
空しき網をたぐつて舟唄は帰る。


 “shikotpet chep ot          シコツペツに魚みち来れば
 tushpet chep sak            ツシペツに魚ゐずなりゆき
 ekoikaun he chip ashte         東の方に舟を走らせ
 ekoipukun he chip ashte        西の方に舟を走らす
 tushpet chep ot            ツシペツに魚みち来れば
 shikotpet chep sak”          シコツペツに魚ゐずなりゆく


流木が囲む漁場の煙
焚火にこげる(サクイベ)の腹
わびしくランプともり
郷愁に潤む漁夫のまなじり

火の山の(カムイ)も滅び星は消え
石器埋る岬の草地
風は悲愁の柴笛(モックル)を吹き
霧雨(ジリ)に濡れてトリカブトの紫闇に咲くか

――――――――


 上記アイヌ語の漁歌の読方は、前曲、叙事詩の場合と全く同様である。和訳は知里(真志保 ※)氏。
 なお、詩文中に柴笛(モックル)とあるのは、アイヌの民俗楽器で、mukkuri,mukkur,mokkur,時にmukkunaなどとも呼ばれる口琴(Jew's harp,Jaw's harp)の一種である。これには二つの系統があるが、広く用いられているものは竹で作られ、中央にある辨に長い紐が付けられ、これで音律を操作する。主として女性の玩ぶ楽器である。
 また、霧雨(ジリ)とは、この地方一帯の極めて深い霧で、これに見舞われると、視界はとざされ、温度が急激に下がる。時には、衣服を通して肌まで濡れるが雨ではない。


(出典:『伊福部昭歌曲集』全音楽譜出版社 1971年)
※=筆者註。なお、出典内の「モツクル」は、原譜の表記に従い「モックル」とした。


【CD「小杉太一郎の純音楽」報道記事】


伊福部昭先生の思い出


志茂和男


 私が北海道大学合唱団に在籍したのは昭和40年から昭和44年、当時は非常に合唱人気は高く、我が同期1年の定演出演者は33名(全団86名)と今から思うと非常に多くの団員に恵まれていた。

 団創立50周年を記念して作曲を委嘱した伊福部昭先生の思い出について記してみたい。

 先生は我々に対し男声合唱用に編曲したオーケストラ伴奏付きの《シレトコ半島の漁夫の歌》を作曲して下さった。作詩は更科源蔵さん、初演は昭和41年11月2日/3日の第15回定演、指揮は白井暢明さん、伴奏は北海道大学交響楽団であった。翌42年1月には東京の虎ノ門ホールでこの曲を含め東京演奏会を開催した。

 先生に曲を委嘱した前後、2回ばかり世田谷区尾山台のご自宅を伺った。いつもダークブラウンのピアノを備えた落ち着いた雰囲気の仕事部屋に招き入れてくださった。1回目の訪問時作曲中の委嘱曲の一部のメロディーを「恥をしのんで弾いてみましょう」と謙遜しつつ、力強いタッチで自らピアノで弾いてくださった。

 その際は当時の代表 中村国昭さん等と定演や東京演奏会の指揮者をどなたかプロの先生にお願いしたいとご相談した。先生は「学生さんが振るのが良いのです」といって学生指揮者以外は考えておられなかった。もっとも「アンセルメが振ってくれれば別ですが」と半分冗談も言っておられた。

 作曲の謝礼については、恐る恐る切り出した我々に対し「私は貧乏学生さんからお金を頂く気はありません。まあ秋に“あきあじ”でも届けてもらえれば十分」とおっしゃった。晩秋に伺った訪問時、札幌で用意した極上の新巻鮭を高橋宜郎さんとともに、はるばる一本持参した。後日先輩の一部からはそれではあまりに非礼ではないかとの声もあがったと聞いたが、とても先生が謝礼を受領して下さる雰囲気ではなかったと記憶している。

 この時は札幌での定演の録音テープを持参し聴いて頂いたが、先生は第一にリズムの取り方を指摘され、冒頭のメロディーを口ずさんで、こういう楽譜のときは、こういう風に緩急をつけて演奏するのが原則ですと説明された。そういう原則を記述したものはあるのですか?の問いに対し、そういう書物がないので今まとめているところですと言って、執筆中の『管絃楽法 下巻』(音楽之友社刊)の原稿の一部を見せてくださった。音楽の書物でありながらサイエンティフィックな記述であり先生の知識の奥の深さに感銘するとともにと我々の不勉強を恥じた。

 先生にお会いした時期は映画『ゴジラ』封切り後10年位の時期で、御年は52歳。今ほど騒がれる有名人ではなかったかと思うが、すべての物事に対して高い見識とこだわりがあり、黒の蝶ネクタイを愛用するダンディな先生でもあった。東京演奏会の際も奥様同伴、蝶ネクタイ姿で聴きに来て下さった。


 今回、Salida 出口寛泰様との御縁から世に出ることとなった音源を聴いた感想は、なにより、50数年前のオープンリールに収められていた当時の演奏に接することが出来た驚きと感激でした。

 生真面目な学生の演奏の感がありますが、少なくともあの頃は若かったと改めて感じます。CDに収められた1966年初演の札幌演奏会(伴奏は北大交響楽団)、翌年の東京演奏会(同 青山学院管弦楽団)とも管弦楽の伴奏付きでしたが、その後歌ったり、聴いたりしたこの曲の演奏は全てピアノ伴奏付きであったと思います。改めて当CDを聴くと、ピアノ伴奏では表現し得ない重厚なハーモニーが鳴り渡り、まさにこれが伊福部先生の音楽の真髄と感動します。

 終章には鐘(チューブラー・ベル)の音が鳴り響きますが、当時の北大交響楽団にはこの楽器がなく、札幌交響楽団に借用に行った記憶があります。先生の音へのこだわりをここでも感じました。

 この音源は当時歌った我々合唱団員の貴重な宝物です。



※ 本稿は、『北海道大学合唱団百年のあゆみ』(2016年6月1日発行)掲載「伊福部昭先生の思い出」を加筆・再構成していただいたものです。




Salida・CD「伊福部昭の純音楽」
JASRAC 許諾番号:R-2090699JV, R-2090700JV
JANコード:4571503310140

CD3枚組DESL-014~16¥7,000+税

7作品全音源初CD化


【「伊福部昭の純音楽」収録内容】


【「伊福部昭の純音楽」特別寄稿】




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【CD「小杉太一郎の純音楽」報道記事】






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