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松村 禎三


 作曲家 池野成は2004年8月の暑い日盛りに亡くなった。享年73歳、肺癌による死であった。

 彼とはじめて会ったのは芸大受験の時、池内友次郎先生のお宅でであった。高校時代ラグビー部のキャプテンをやっていたという彼はそれに似あわず痩せぎすで大そう優しく慇懃な若者であった。彼と私は忽ち何でも語り合える親友になり、奇跡のようにこのことは50数年間変わることがなかった。


作曲家 池野 成 松村 禎三 
池野 成       松村 禎三

(撮影:小杉太一郎 1956年8月小杉宅にて)


 池野の作曲活動の立ち上がりは瑞々しいものであった。1952年、管弦楽曲「序奏と交響的アレグロ」で毎日音楽コンクールに入賞、つづいてモダンダンスの江口隆哉・宮操子舞踊団より委嘱され管弦楽曲を作曲、それを演奏した上田仁と東京交響楽団は直ちに定期演奏会にとり上げ、「ダンス・コンセルタンテ」という名前で演奏され、このことは新鮮な出来事として注目された。
 映画監督 吉村公三郎が彼に映画の仕事をたのむようになった。「四十八歳の抵抗」や「夜の蝶」の中で彼は驚くべき新鮮な曲を書いた。そのまま音楽として自立し得るような密度の高い美しい触感をもったものであった。

 彼は伊福部昭先生の門下であった。芸大で管弦楽法を教えておられた先生に出会って衝撃を受け、ヨーロッパ一辺倒の音楽から絶縁しようとして、先生が辞められたのと同時に芸大を中退してしまう。
 池野の映画音楽の水際だった仕事は当然のこととして多くの監督達に注目された。次から次へ映画の仕事がつづき、池野はその厳しい現場を経て高い技術を身につけたと思う。彼こそは演奏会用のすばらしい管弦楽曲を書かなくてはいけなかった。しかし、初期の作品といくつかの舞踊曲以外には、数曲の打楽器を中心にした曲と、1曲のヴァイオリン協奏曲を残しただけで彼はその生涯を閉じてしまった。

 池野ははしたない自己顕示を極端に嫌った。先祖は位の高い士族であり、今も桂林寺に代々の墓碑が並んである。祖父 池野成一郎は蘇鉄が精子によって繁殖することを発見した植物学の泰斗であり、日露戦争があったことを終わる迄知らなかったという伝説をつくられた程の純粋な学者であった。直系の孫である成少年は何時も祖父の散歩に連れ出されていたという。池野成の超俗の根はこの辺からくるのかもしれない。自己顕示のために不完全なままの作品を発表することなどは到底考えられないことであった。物腰が低く、慇懃ではあるが、正にしたたかな精神貴族であった。この潔癖からくる多くの苦しさに彼は堪えつづけたと思う。

 「よかったね」開放された美しい死顔に向ってそう言いたくなった私自身に驚いている。彼は強靭な人生を完結したのだ。







出典:■「池野 成メモリアル・コンサート」プログラム

■「松村 禎三 作曲家の言葉」 春秋社


※ 松村家 御遺族様より御了承を得て掲載





松村 禎三 氏 略歴




作曲家 池野 成 研究活動


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