―――ハチャトゥリアンにお会いになったのですか?!
ハチャトゥリアンが来日して厚生年金会館でコンサートやったんですねぇ。
ハチャトゥリアンが読売日本交響楽団を指揮して交響曲第2番《鐘》とかレフ・オボーリンっていう人のピアノ・ソロで《ピアノ協奏曲》を演奏したんですよ。
オボーリンがピアノ弾いてるのをそばで見てね、手の大きさが我々と比べものにならないぐらい大きいのね。最初のピアノを押さえた時の音聴いたら「こりゃ、すげぇ」ってことしか頭に出てこない。もう自分はピアノやめた方がいいなって思ったぐらい。ただただ圧倒されましたね。
その時、あれはどこかの放送局か音楽の協会みたいな団体だったかに日本の作曲家の何人かがピックアップされてね、「なにか自分の作品を持って集まれ」って呼び出されたんですよ。その中に私もいたのね。
しょうがないから東芝で録音した《抜頭によるコンポジション》のレコードを持って行ってハチャトゥリアンに聴いてもらったら、ハチャトゥリアンが
「ソビエトとチェコスロバキアに音楽学校があるから、どっちかにすぐ来い」
って言うわけ。
それでどうしようかなと迷ったんだけどね。どちらも当時は共産圏ということもあったし、門馬ちゃん(門馬直美)に「あっちはなにより食べ物や飲み物が口に合わない。衣食住がたいへんだからやめとけ」って言われてね。結局行かなかったんですよね。
でもそういうことがあったからか、私も一時期ハチャトゥリアンに傾倒して。だからその頃に書いたバレエ《飛鳥物語》の音楽にもハチャトゥリアンの音があったでしょ(笑)。やっぱり染まるのね。我ながら音楽聴いて「あ、これハチャトゥリアンだぁ」と思った部分がありましたねぇ。
―――仙台に戻って来られたのはいつ頃ですか。
東京オリンピックが終わってからだから、少なくとも1964年以降ですね。
いよいよ私がお寺を継ぐってことになったから帰って来たんですけど、こっちに着いたらいつのまにか仙台のNHKの仕事が入っててね。なんか土曜日に放送する音楽番組の音楽を書かされたんですよ。その時はテーマに民謡を使ったオーケストラの曲を書いて、私が指揮もしたんだけど、そこで演奏していたのが仙台放送管弦楽団なんです。
それで録音がはじまって、指揮をしてたら「あれ?オレこんな音書いたっけなぁ?」って音が鳴ってるのね。ホルンで書いたつもりの旋律がトランペットで鳴ってる感じなの。確認したらやっぱりホルンがトランペットみたいな音出して吹いてて(笑)。「ええっ?!」と思ってねぇ。
その時初めて仙台放送管弦楽団を指揮したわけだけど、スタッフにどうしてこういうことになるのか聞いてみたら
「ここの管楽器はほとんど元海軍軍楽隊と陸軍軍楽隊なんです」
結局、ホルンですごい音出してたのは元海軍軍楽隊の人だったの。考えてみたらね、航空母艦の上でホルンの柔らかい音出したって聴こえないわけですよね(笑)。だからいつもトランペットみたいなパァーーー!!って音だすの。その感覚のまんまで吹いてるのね。よく見ると弦には若い人が多少いるけど、管楽器にはお爺さんみたいな人が他にも何人かいるんですよ。それで困ったなぁとは思ったけど、「もっとピアノで!ピアノで!」とか言って、なんとか録音を終わらせて(笑)。「こりゃあ、新しくオーケストラをつくらなくちゃいけない」ってそこで思ったわけです。
たまたま仙台放送管弦楽団でヴァイオリンを弾いてた川村さんっていう子どもの頃からの知り合いがいたから、その人と二人で「じゃあ、新しくオーケストラつくろうか」ってはじまったわけですね。
今だったらオーボエやファゴットとか中学生でも吹いてますけどね、当時はとにかく楽器が無いんですよ。どっかで輸入ものを探してくるしかなくて。
そうやって1973年に設立されたのが宮城フィルハーモニー管弦楽団なんです。1989年から名前が仙台フィルハーモニー管弦楽団になりました。
だから、航空母艦が無かったら仙台フィルはできてなかったよねぇ(笑)。
片岡氏の書斎。
―――1983年から芥川也寸志先生が宮城フィルハーモニー管弦楽団の音楽総監督に就任されますね。
芥川先生には大変お世話になりました。
芥川先生が日本作曲家協議会の会長をされている時に、私も東北代表幹事をしてたんですよね。昔から面識があることもあって、この面でもお付き合いさせていただきました。
作曲家協議会の東北グループの演奏会っていうのがあった時に芥川先生も来てくださって、演奏会後にホテルの一室でみんなで飲みながら地方オーケストラのことについて話したんです。あの時、芥川先生はビール飲んでたのかなぁ…。ワインがお好きなんですけどね。
その時に「芥川先生、宮城フィルに音楽監督として来ていただけますか」ってお願いしたら「じゃあ、手伝ってもいいよ」っておっしゃったの。それでその後ね、東京の成城の御宅に改めて頼みに行ったら「あれ?そんなこと言ったかな?」って(笑)。飲みながらの話だからもう忘れてるわけね。
それでしばらく「うーん......」となっちゃって。その時お昼前にうかがったんだけど、だんだんお昼過ぎになってきて「それじゃあ、蕎麦でも食べに行くか」となって、成城にある馴染みの蕎麦屋さんに連れていってもらって、蕎麦食べながらね、また話して「じゃあ、しょうがない。やろう。そのかわり、指揮は年に三回以上はしないよ」ということになったんです。その他の演奏会は若い指揮者にやってもらって、あとはお話をされに仙台に来るとか、オーケストラの運営その他の相談に乗ってくださると。でも結局は指揮もたくさんしてくださったんですよね。
その前後だったか、弘前大学のオーケストラを芥川先生が指揮する演奏会があって、本番が夜だったんだけど、その日の昼間に「蕎麦喰いてぇな」ってことになって。やっぱり蕎麦がお好きなんですよね。弘前城の近くに有名な蕎麦屋があって、そこ美味しいのね。それで行ってみたら休みだったんですよ。そしたら「残念だなぁ」って芥川先生はあきらめたんだけど、私たちはあきらめないでね、店の裏に回って「こういうわけで芥川先生がどうしてもここの蕎麦食べたいっておっしゃってる」って芥川先生にかこつけて頼んだんですよ。本当はこっちが食べたいんだけど(笑)。そしたら店の人も「どうぞ今開けますから」って言ってくれて食べれたことがあるの。あの蕎麦は美味かったねぇ(笑)。
だから芥川先生とは蕎麦が御縁という感じがありますね。
ある時、私の家のポストに間違ってお隣さんの手紙が入ってて、それを届けに行こうとしたら転んじゃって、足の小指を骨折したことがあるんですよ。その時はもう宮城フィルをやってた頃なんですけどね。
そしたら、芥川先生が夜中にお見舞いに来られたの!仙台まで。ちょうど今お話している隣の部屋でいろいろ話したんですけどね。ほんとにマメな方ですよね。
芥川先生はね、仙台には特急じゃなくて各駅停車のグリーン車で来るんですよ。グリーン車で寝ながらゆっくり。つまり、東京と仙台をアッというまにパッパッと行き来するんじゃなくて、「電車の中だけはゆっくり過ごしたい」っていう気持ちがあるんだね。もうそれだけ忙しかったわけですよ。
―――片岡先生は三重県桑名市(Salida在住)に来られたことがあるそうですね。
大谷大学に行ってた頃ね。
仙台からいったん東京に来て、次に東京から京都までに行く途中、何かの都合で桑名で待つことになって、駅前のパチンコ屋でパチンコしたの。そうしたら入ってね(笑)。
あの頃はまだパチンコの玉を一回ずつ自分で入れて打つっていうね、そういう時代。もう入って入ってね、ごっそり景品もらって。それで同級生や先輩が集まってる合唱団の合宿にたくさんお土産もってったの。そしたらみんな喜んでね(笑)。
あと、桑名の近くの名古屋でもね、名古屋に来たからには本場なんだからやろうってことでやってみたのね。みんな名古屋のパチンコは入んないっていうんだけど、これが入ったの(笑)。「パチンコ専門でやってんの?」って言われたんだけど、あれやっぱりビギナーだから入るんだね。
だから私は桑名っていうとパチンコなの(笑)。
現在も日々、作曲にいそしまれる片岡氏。
〈肆〉/〈伍〉
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