―――大谷大学の後、国立音楽大学に行かれますが、これは編入学されたということでよろしいのでしょうか。
最初はそのつもりだったんだけどね、単位が複雑なんですよ。
4年制の大学だと2年間やればいい「教養」という科目と4年間ずーっとやらなくちゃいけない「専門」っていう科目があるんだけど、この科目が大谷大学と国立音楽大学では違ってたんですよ。
大谷大学ではドイツ語を2年間やってたんだけど、国立音楽大学だとドイツ語が「専門」で4年間やらなくちゃいけない。「作曲」の科目はもちろん4年間しなくちゃいけない。だからどっちみち4年間行かなくちゃいけないんで、編入学というより純粋に国立音楽大学に入学したわけね。
だけど、さっき言ったドイツ語は完全じゃないけど、すでに2年間分の単位は取ってるわけね。他に心理学だとかの一般教養も大谷大学で単位取って終了してるから、とにかく時間があるわけですよ。
だから国立音楽大学に通うために東京へ行ったとたん、写譜の手伝いや劇伴音楽をやってました。当時は音楽大学の学生でもそういう仕事が入ってくるんですよね。それでこっちはこっちで時間があるし。手伝いは神津善行さんのところでやってたんですよ。
―――大谷大学から国立音楽大学に行かれたというのは、やはりやむにやまれぬ作曲への思いがあったのでしょうか。
いやぁ、もうなんとなしに入ったっていうか...。
最初はね、大谷大学を卒業してから東京藝術大学を受けたんですよ。あそこは一次、二次とあって三次試験まであるんですよね。
一次試験は和声の「ベース課題」と「ソプラノ課題」があって、それから自分で曲つくる「創作課題」っていうのがある。それから4日か5日後ぐらいに次の二次試験ってのがあって、その試験会場に行ってはじめて自分が受かったのか落っこちたのかがわかるの。それで一次試験は通ったんですよね。
奏楽堂ってあるでしょ。今は場所変わってるけど。試験の時、ヴァイオリン科だとかピアノ科はステージ近くの前の方に集められるんだけど、学理とか作曲科ってのはね、もう後ろの方の隅っこ。それで周りには自分より年上のおじさんみたいな人がゾロゾロいるわけよ。「ヨォ〜」なんて言ってね、後から入って来た受験生に挨拶して「その後どうだ」とか去年のこと話してるわけ。あ、みんな前にも試験受けたんだなってすぐわかるの。こっちは何にも知らないで初めて試験受けるわけでしょ。それ見ただけでね、こりゃ現役で合格するのはむずかしい、浪人覚悟で受けなきゃだめだと思って、もう途中でやめたの。まぁ、おそらくあの時続けて試験受けても駄目だったね。それで国立の入学試験があったからそっちを受けたんです。
国立に行っている時、私は清水町ってところに住んでて、神津善行さんのところへ手伝いに行ってたわけね。神津さんの家の近くには吉田雅夫さんのお宅があって、フルートの音がしょっちゅう聴こえてたんですよ。この頃はいろいろ面白いことがありましたねぇ。
吉田雅夫さん宅の隣の隣に「マスイさん」っていう人が住んでる家があって、そこのお爺ちゃんってのが将棋好きなのね。それで私はなにかでそのお爺ちゃんと知り合って、よくマスイさんの家に将棋を打ちに行ってたの。魚釣りの話をしたりしてね。そんなふうにしてしばらく“マスイのお爺ちゃん”と付き合ってたんです。そしたら後になってわかったんだけど、その“マスイのお爺ちゃん”って実は井伏鱒二だったの。知らないで会ってたの(笑)。なんだかいろんな人が出入りする家だなぁとは思ってたんだけど、私にはひとことも“井伏鱒二”なんて言わないし。
その井伏鱒二さんが書いた『本日休診』に出てくるお医者さんのモデルの南雲今朝雄(なぐもけさお)さんも近くに住んでたんですよ。
映画音楽の写譜をした後なんか、よく江口医院っていうところにビタミンを打ちに行くんですよ。あれポワァ〜としてよく効くんですよね。やったことあります?
―――いえ、ないです。
その江口医院ってところにモデルになったお医者さんがいたのね。一度「寝不足によく効く薬ってのはないですかね」って聞いてみたら「あるよ!」って言うわけね。だから「じゃあ、それください」って言ったら「そりゃ寝ることだよ!それが一番確実だ!」そういう先生なのね(笑)。
それで音楽大学の方はどうかっていうと、こっちは下宿に住んでてピアノなんて持ってないんですよ。裕福なうちの子や女の子はだいたい持ってましたけど。だから私たち男子学生は人のピアノを借りて弾くわけです。学校なんかでも何時間いくらでピアノを練習させてくれるんだけど、我々はそれしたことないの。たとえば女の子が学校のピアノ2時間借りたんだけど1時間で終わっちゃった、なんて時にヒョっと部屋に入り込んで空いてるピアノ弾いちゃうの。だから「ピアニスト」じゃなくて「ピア盗っ人(ピアヌスット)」(笑)。
そういうね、勉強してんだかしてないんだかさっぱりわかんないような状態でしたね。
東京での当時を振り返る片岡氏。
―――国立音楽大学在学中からすでに音楽のお仕事をされていたわけですね。
あの頃はね、音楽の仕事だったら頼まれればなんでもしたの。
国立の声楽科の友達に作曲家の上原げんとや流行歌手の秘書みたいなことをしてたのがいて、ある時、そこから「バックコーラスやらないか」って話がきたの。それじゃあっていうんで声楽科じゃない他の科の連中も集めてね。だってバックコーラスっていっても「ワワワワ、ワワワワ」とか「ウ〜〜〜」ってそんな程度だし、みんな譜面は読めるわけだから。それで東海林太郎とか《月の法善寺横町》歌った藤島桓夫の後ろに並んでバックコーラスしてけっこうお金もらったんですよ。
アバコスタジオとか昔は国会議事堂の近くにスタジオがあって、そこでバックコーラスして当時の額で五千円ぐらいもらってましたからね。けっこうな額ですよね。
他にもたとえばバーのピアノとかね、ダンスホールのピアノ、それで渋谷にだいぶ行ったねぇ。
それとかストリップ劇場のピアノなんてのも弾きましたね。ストリップ劇場の時はね、サックス、ドラム、コントラバス、ギター、ピアノっていう具合にだいたいコンボバンドなんですよね。それで私は壁の方向いてスタンドピアノを弾くんだけど、たまにストリッパーがショーの最中にパーッって投げた服が私の肩にかかったりするんですよ。そしたらバンドマスターが「そういう時にはすぐ服をお客さんの方へ投げろ」って言うのね。「そうするとお客さん喜ぶから」って。そんなことまでやったんですよ(笑)。
劇伴音楽の仕事もしました。
日活の音楽スタジオでよく録音してましたね。隣のスタジオでは山本直純さんとかが仕事されてましたよ。映画の場合、録音も長時間だから朝9時に集まって、次の日の明け方近くまでかかるんです。
前にスクリーン貼って、映像を映しながら録音するんですけど、その映像が映される前に3、2、1って1秒間隔のテンポで数字が出てくるんですよね。そうするとそのテンポより速く棒振らなきゃいけない時とか逆に遅いテンポで振る時にわけがわかんなくなるんですよ。ただでさえ徹夜して疲れてますしね。だけどそれで時間かかったらいけないから、そういう時は先輩の佐藤勝さん。あの人は映画専門だからね、佐藤さんに助けを求めて代わりに指揮してもらって。やっぱり佐藤さんにお願いすると録音終わるのが早いんですよね。
そうはいっても私もどっちかというと録音終わらせるのは早い方だったんですよ。あの頃、とくにテレビの劇伴の録音なんてのは、内容がどうこうじゃなくて、いかに録音を早く済ませてスタジオを使う時間を短くするか、みたいなところがあったんです。常にスタジオは録音がダブってるような状況だしね。だから録音を早く終わらせた分だけ次の仕事が来るんですよ。
そういう状況の中でテレビや映画の劇伴をやってたんですよね。私の場合、映画だと『日本の戦争』(1963年 製作:毎日映画社 配給:日活)っていう作品がいまだに著作権料が入ってきますから、まだどっかで観られてるんですかねぇ。
―――劇伴のお仕事はやはりオーケストラの勉強になりましたか。
なりますね。あと音楽の付け方でも色々教わることがありましたね。
たとえばお葬式の場面でわざとにぎやかな音楽がバックから聴こえてくるようにつくったり、逆に楽しい場面であえて静かな音楽を流したりね。つまりそのシーンのおもての感情ばっかり音楽にしてたんじゃダメなんですね。またそういうことを「君、こうしちゃダメだよ」って先輩が教えてくれるんですよ。佐藤勝さんにはそうことをずいぶん教えていただきました。
―――片岡先生と国立音楽大学で同期の作曲家の方はいらっしゃいますか。
宮内國郎っていうのが私と同い年なんですよね。あのウルトラマンの音楽書いた。でも彼は国立音楽大学附属高校で最初トランペットやって、高校出た後は進学しないかたちをとったから、大学で会ったっていうことはほとんどないの。会ったのは宮内國郎の書いた曲の写譜を手伝ったりとか音楽の仕事の時ですね。
あの頃、写譜の仕事は来ましたねぇ。もうね、イヤってほど来て。おかげで譜面書くの速くなりましたね(笑)。写譜するだけならまだしも「ちょっとそこの部分、適当に音を足しといてよ」って時もあるしね。間に合わない時なんか録音スタジオの中で写譜してインクが乾かないうちに演奏者に渡すんだから。
あと、東京にいた頃、仕事以外の時には服部公一とかとよく遊んでました。童謡とか歌曲をたくさん書いてますよね。服部公一とはブラジルや台湾へ一緒に旅行したこともあるんですよ。
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