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ompany【 作曲家 池野成 考 】




片山 杜秀 インタビュー(2)




チェロがない!ファゴットもない!


 池野先生の音楽の特徴として低音だ、低音のドローンだ、その瞬間的圧力や重い引きずりなんだとか、言ってしまっておりますけれども、もちろん大概の音楽には、民族音楽だろうがクラシックだろうがロックだろうが、低音はありますわね。ベートーヴェンでもシェーンベルクでも、伊福部昭でも黛敏郎でも、バスは力強く存在し、それなりに特徴的なわけです。

 ただ、池野先生の場合、普通の西洋音楽流の常套的なオーケストラの発想だったら、低音はコントラバスとかチェロとかファゴットとかそういうところにまず配分されて、トロンボーンとかだと音色も音量も目立ちすぎてしまうから、使いどころはコントラバスなんかに比べれば局限されますでしょう。最初からずっとバスはトロンボーン主体でいつも「ヴォーーーーー、ヴォーーーーーー」と強く目立つようにというふうには、まずやらないですね。楽器の性質から言っても、チェロほどにはずっと音を出していられませんし。疲れちゃうから。

 だけれども、池野先生の音楽では、その普通でない手が普通になっている。先生のバスの書き方では、明らかにトロンボーンとバス・トロンボーンの組み合わせに対する偏執的なところがあって、映画音楽に顕著なように、低音で音楽が始まろうとすると、いきなりトロンボーンから「ヴォーーー、ヴォーーー」って出てきてしまう。しかも最初から楽器編成としてトロンボーンとバス・トロンボーンがバスの主軸になるように設計されていて、トロンボーンを厚くするかわりに、弦楽器から低弦を抜いてしまう。池野先生の映画のためのスコアのかなりのものは、チェロを欠いているし、コントラバスもなかったりする。あと、木管楽器も、これは今回、映画音楽のスコアを見せて頂いてはじめて意識したんですけど、ファゴットがないものが目立つ。これはちょっとびっくりしました。聴こえなくても、どっかでは重ねて使ってるんだろうと、勝手に思い込んでましたんでね。ファゴットを使うのもあるのですが、それは何か意図があってわざわざそうしているときが多く、要するに池野好みのオーケストラの編成には、そのノーマルな状態としては、はじめから低弦もファゴットもコントラファゴットもない。低音は、いつもトロンボーンとバス・トロンボーンの、あの「ヴォーーー、ヴォーーー」であると。低音の金管がそんなによければテューバをもっと使っても、とも思うんですけど、それもあんまり使わない。少なくとも映画音楽ではね。音色の問題、倍音構成の問題、音量の問題、録音の問題、その他、いろいろあるのでしょう。まあ、テューバはファゴット同様、基本的に忌避されている。


通奏トロンボーン?


 だから、池野先生は低音を好むということはもちろんなのですけど、より具体的にいうとトロンボーンとバス・トロンボーンの音色を好むんですね。そのトロンボーンとバス・トロンボーンのバスが鳴っている上に、他の音を重ねて塗って厚くしてゆくという形で音楽を作るのが、池野先生の発想の根源にどうやらなっている。バロック音楽で通奏低音というのがあって、だいたいチェンバロやファゴットやチェロでやるんですが、池野音楽では通奏低音は通奏トロンボーンであると。池野先生のようにいつもトロンボーンを「ヴォーー、ヴォーー」と鳴らしたいというのは、音楽の発想としてかなり特別ですね。トロンボーンとバス・トロンボーンの音色がもう作曲家の個性と一体化してしまっているのですよ。

 ああ、もう20年くらい前ですかねえ、伊福部昭先生のお宅に頻繁に伺わせて頂いていた頃、その話をわたくしが振りまして、尋ねたんですよ。池野成の音楽はトロンボーンでバスを作るというのが基本になっているように思われるんだけれども、どういうことなのでしょうかと。まあ、今思えばそんな質問をして何を求めているのだというような、ひどい質問なんですが、そうしたら伊福部先生はタバコを吸われながら、遠くを見て、しばし無言であられたけれども、しばらくたって「普通はああはやらんですな」とか意味深長に仰って、それっきりだったと記憶しています。


タテを愛して、ヨコを捨てる


 作曲家にも色々なタイプがいますが、メロディ、主題が先にありきで発想するタイプだったら、メロディがあれば、そのメロディに相応しい音色や音量やハーモニーを考え、時と場合に応じて、ヴァイオリンがいいか、ピアノがいいか、トロンボーンがいいか、なんてやるわけでしょう。

 ところが、池野先生の場合は、そうではなくて音色や音圧で発想しているから、ある楽案は特定の楽器じゃなきゃ絶対にダメなんですよね。今回のブックレットの文章でも書きましたけれど、池野先生はそういう意味で垂直的な音色をどのように充実した形で作るか、まさにお寺の鐘を鋳造するようなもので「ゴーーン」っていうあの一発をいかに魅力的な音にするかってことにばかりいつもいちばんこだわっていた作曲家だと思うんですね。

 しかも池野先生の楽案と結びついた音色や音圧、彼が書きたい音楽を探すとどうしても辿り着く音色や音圧は、少なくともその土台というか根元というか、そのあたりでは、トロンボーン、バス・トロンボーン、それから打楽器ですね、そういう限られた楽器と結びついて離れられない。それらの楽器をボーンとかゴーンとかまず鳴らしておいて、その上に音量、音色、倍音の響きがよくはまってくるような各種楽器の重ね方を、本当に緻密に考える。そういう、狭いと言えば狭いのかもしれないけれど、その代わりに途轍もなく完璧で見事に音の質感・量感がみっしりと詰まって充足した世界にしっかり籠もって、そこをずっともっともっとと掘り下げていた人が、池野成なのでしょう。

 昨今の現代音楽の世界では、「スペクトル楽派」という、旋律的、律動的な音のヨコの展開より、タテの音色やハーモニーの作り方に異常な関心を払って、オーケストラや各種アンサンブルで、奇抜だったり強烈だったりする音色のいろんな工夫を万華鏡的にひたすらやってみせるような一派がフランスを中心に存在しているんですけど、池野先生の音楽への興味は、それとどこか近いようにも思えますね。黛敏郎さんにも、そんなところがあって、池野先生は黛の影響を被っている部分が、池内や伊福部といったお師匠さんのそれ以上に、あるようにも思いますけれども。



片山 杜秀インタビュー(1)/(2)/(3)




作曲家 池野 成 研究活動


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