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片山 杜秀


作曲家 池野成 1956年
作曲家 池野成
(1956年8月 撮影:小杉太一郎)




(1)

 池野成が音楽を志した理由は、戦後間もない頃、占領軍放送で、近代のオーケストラ作品をたくさん聴いたからだという。特にラヴェルやストラヴィンスキーの、膨大な編成を持つ作品に魅せられたからだという。

 しかも、その魅せられ方が特徴的である。音楽に印象づけられるといえば、まずはメロディやリズムにある場合が多い。記憶に残った音楽を口ずさむと言ったとき、口ずさんでいるのは、大抵はメロディでありリズムである。ところが、池野が第一に魅せられたのは響きだった。メロディやリズムのように時間的経過を伴う、ある纏まった音楽の展開よりも、瞬間瞬間にドーンとかフワーッとか鳴る音色や和声、あるいは音量に溺れてしまったというのである。
 もちろん、響きだったら何でもいいというのではない。池野がのめり込んだのは、ラヴェルの《ダフニスとクロエ》やストラヴィンスキーの《春の祭典》といった大オーケストラの、これでもかとエネルギッシュに鳴りきるような箇所である。
 どうしてこんなヴォリュームのある音がするのか、その仕組みを知りたい。楽器の組み合わせを探究したい。それが、池野の音楽に進んだ動機だった。本人の口から聞いた話である。
 
 この筋書きは、黛敏郎と武満徹という2人のことを想起させずにはおかないだろう。黛も、自分のメロディやリズムよりも何よりも自分の響きを作りたくて作曲家になったと、述懐してくれたことがある。しかも彼がこだわった響きとは、とにかく膨満し溢れかえるような響きだった。一方、武満は、作品の着想を得るとき、出てくるのはメロディやリズムではなく瞬間的な響き、音色のイメージであると、よく世間に語っていた。その響きや音色というのも、やはり豊かさのイメージと結びついたものだった。要するに黛も武満も、作曲家へのなり方は、池野とほぼ同じだったのである。

 なぜだろう?世代が関係していると思う。池野は1931年生まれで、黛の2つ下、武満の1つ下になる。つまり、3人はあまり年が違わない。ついでに言うと、黛と池野は、同じ池内友次郎と伊福部昭の門下で、池野と武満は、若い時分、家が近所だったので付き合いがあった。そして、3人の少年時代は過烈な戦時である。日米開戦の年の1941年には、黛12歳、武満11歳、池野10歳、敗戦の年には黛16歳、武満15歳、池野14歳。多情多感な盛りに、物がなく、食べることにも事欠き、文化芸術に親しむ機会も局限される。世界が薄っぺらで貧しくモノクロームだったのである。そういう環境に長いこと置かれ続けた少年が、とりわけ量感というものにとてつもない憧れを抱くようになるのは当然だろう。その種の憧憬を、たとえば音楽で引き受けるのは、近代オーケストラ音楽のはちきれるほどにたわわな響きになる。そういえば池野は、1945年までの灰色の世界に比べ、戦後、ラジオから聴こえてきたラヴェルやストラヴィンスキー、それからファリャは、あまりに眩しかったと語っていた。

 そんな池野が、作曲家になって、大管弦楽向けの眩しいばかりに響き渡る演奏会用作品群を書き続けたというなら、話は見えやすい。が、実際は違った。




余りにも雄々しく、余りにも純粋に (1)/(2)





作曲家 池野 成 研究活動

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