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家族





 玄関をあがって最初の部屋、重い引き戸の向こうが父の仕事部屋だった。戸の隙間からはピアノに向かう父の大きな背中が見えた。部屋の前の短い廊下の先には居間があり、5人家族にとっては本当に狭い家だった。
 庭を挟んで、祖父母が暮らす大きな平屋があり、もう一方には父が仕事部屋として使うはずだった2階建ての離れがあった。
 しかし父は一度もこの部屋を使うことは無かった。

 音楽談議で盛り上がる席で、酔った作曲家仲間のお一人が
「しかし君、こんな所でよく仕事できるなあ…子供たちの声がいつも煩いし…あっち(祖父の家)の民謡は聞こえてくるし…」
と言った。子供心にも父が可哀想に思えた。
「あっちの離れも建てたんだけどね、ダメなんだな。僕は子供の頃親父が撮影で留守ばっかりだったから、子供とは出来るだけ一緒に居たい。煩いんだけどねぇ、これが無いと落ち着かない。」
と言って微笑んでいた。

 祖父の家には毎日のように映画関係の来客があり、小さな私にとっては、個性的で面白い大人たちばかりが集う賑やかなこの家が大好きで、何処よりも楽しい場所だった。
 父におもちゃを買ってもらった記憶は無いが、絵の具、バレエシューズ、スケート靴、グローブ…何かを始めたい時には父はこっそり道具を選び、買って来てくれた。

 仕事が追い込みに入ると、写譜の方々との徹夜が続き、部屋には霞のようにタバコの煙がたち込めた。緊迫した空気の部屋にお茶を持って行くと、父は急にニコニコして
「今日は先生の所で何を描いたの?ここへ持ってきて見せてごらん。」
決まってそう言った。小さい頃から絵を描くのが大好きだった私を
「うちのちっちゃい芸大生」
と皆に紹介し、私がその日に描いた絵を皆さんに見せては自慢した。
私はそんな親ばかな父が嬉しくて、お茶を運ばせてと、母にせがんだ。
寝る間も無い、僅かな時間の中で、子供たちが興味のあることには、常に寄り添い、応援してくれた。
 そしてやり場の無い父の苦悩やわがままは、明るい母が全て受け止めていた。


 私が中2になってすぐに父が入院した。癌だった。余命は3ヶ月。

 当時はまだ、高度な癌治療など無く、丸山ワクチンが使えるかどうかという時代。癌に効くといわれる岩のように堅いサルノコシカケを、兄は自分の部屋で隠れるように黙々と削っていた。余命3ヶ月と言われた父だが、幾つかの映画に曲をかき、兄といつも競い合っていた好きなボウリングでは300点を出した。それでも9ヶ月を過ぎたころ、父の体重は半分近くまで落ちて、その頃からは毎日椅子に坐り、1日中静かに外を眺めるようになった。

 ある日学校から戻った私に
「早苗の投げる球、受けたいなぁ。キャッチボールしよう。」
と、父は心配する母に手を振って外へ出て行った。痩せこけた自分を人目に晒すことをあれだけ拒んでいた父が、道路の真ん中で両手を広げ、青い顔で笑っていた。数メートル先の父が動かず捕れるよう、慎重に、弱い球を投げた。
「ナイスボール!」
と笑顔で必死に投げ返されるボールの弱さは、父の残された命そのものだった。
 
 2週間後、再び入院した個室でも、父はピアニカで曲を書いていた。息が続かず吹けなくなると、母が代わって吹いた。

 8月8日、私は試合を終えてから、父の見舞いに行った。病室のドアを開けると、父は窓際に置いた椅子に座り、母と2人で西日を眺めていた。小枝のように痩せた後姿は、眩しい夕陽に溶けてしまいそうだった。
いつもどおり横の机には、五線譜とピアニカがあった。
「この子ね、うちのオリンピック選手。」
と看護婦さんに私を紹介した。
「上の娘はね、お琴の筋が凄く良くってね、長男は僕なんかよりずっと耳が良いんだ。どんな曲でも楽譜に出来て…」
興味の無い笑みを浮かべ、点滴を交換する看護婦さんに
「親ばかでごめんなさいね」
と母が謝っていた。

「元気な奴が食べてると、なんでも美味しそうだなぁ。一口だけなら納まるかな。」
そう言って、私の食べていたカップヌードルのスープを一口飲んだ。それさえも胃に届く事は無かったが、これが父の口にした最後の食事となった。
 帰り際、父が私に伝えた言葉は、明日自分が死んでしまう事を知っているかのような内容で、15の私は、頷くだけで精一杯だった。


 翌日、家族に囲まれて49歳の父は静かに息を引き取った。


 家族の為に、作曲屋として命を削るように働き、作曲家として自分の志すものは全て後回しにしたまま逝ってしまった。


 そんな父の、若い頃の夢が詰まった数少ない純音楽作品がCDになる。企画制作の出口さんとのご縁が全ての始まりとなって、一昨年の「大いなる故郷石巻」CD、今年(2013年)は「交響楽」が初演される。
 そのご縁を辿ると、父の親友池野成さんへと繋がる。まるで池野さんが出口さんを兄の所へ、引き寄せて下さったように思えてならない。

 最後になりましたが、6年もの歳月をかけて、企画制作にご尽力下さった出口さん、また製作に関わって下さった皆様、そして、父の作品を聴いて下さる皆様に、心より感謝申し上げます。



小杉太一郎・次女
椎名 早苗


正月のお雑煮を食べる 作曲家 小杉太一郎
正月のお雑煮を食べる 作曲家 小杉太一郎



椎名 早苗 氏 略歴

CD「小杉太一郎の純音楽」

作曲家 小杉太一郎 研究活動

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