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小島策朗Salidaインタビュー


小島 策朗 氏 略歴



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教会・バタヤン・クラヴィオリン






オルガンとの出会い


 僕は戦争で家が全部燃えちゃって、戦後は“焼け出され疎開”で父親の故郷の桐生にいたんです。そこの工業学校に通っていた16,7歳の時に、友達が「近くに教会があるから」って誘ってくれたんですね。そこにオルガンがあったんですよ。

 それがどうしても弾きたくて最初は手の形から覚えてね。つまり楽譜はわからないわけ(笑)。牧師の奥さんがオルガンで讃美歌を弾いている時の手の形を見て、この形はこういう音だ、っていうことを覚えてたんですね。

 それからピアノの基礎を習ったり、本格的にオルガンを勉強しようと思って、藝大のオルガン科の先生についてレッスンを続けていたんだけど、当時の藝大のオルガン科は毎年2人しか採らないんですよ。

 しかも試験は楽器が無いから「パイプオルガン」じゃなくて「足踏みオルガン」でやるもんだから、みんな成績を良く出来るんですね。結局そうなるとお弟子さんを入門してきた順番に採用する、ということになる。その頃、オルガン科の先生2人に対してお弟子さんがすでに10人いたもんだから、そうすると採用されるのにはどうしても5年はかかる。

 そういう時代だったもんだから、一応藝大は受験したけどやっぱり駄目で、結局、戸越にある日本音楽学校の中学教員養成科に入って中学教員の免許を取りました。今はどこに免許が有るんだか無いんだかわかんないですけどね(笑)。

 それで桐生に帰って就職活動でもしようかな、と思っていた時に、たまたま同じアパートに住んでたバンドマンに「こういう仕事があるんだけど行ってみないか」って誘われて、行ってみたのが杉並のテイチクなんですよ。これが運の尽きというか、良かったというか(笑)。昭和30(1955)年3月末のことです。






田端義夫のバックバンドに


 当時、最初ポリドールに入って、それからテイチクに移った田端義夫さんが全盛期でね。「バタヤン」って呼ばれて人気だったんだよね。
 それでテイチクに行ってみたら、その田端さんが斎藤寅次郎監督の『ハワイ珍道中』の撮影が終了して、これから旅公演をするから、そのバックバンドのピアノ奏者をやれ、ということになったんです。

 だいたい旅回りのバンドっていうのはサクソフォーンが5本あれば良い方で、たいていはサクソフォーン4本のトロンボーン1本、トランペット2本ぐらいで、あとはリズムセクション、ギター、ピアノという、まったく軽音楽の編成なんですよ。

 それで「いつから旅公演ですか」って訊いたら「明日からだ」って言うんだから、もうメチャクチャだよね(笑)。

 急いでスタジオ入って練習したけど、当然バンドのメンバーは見たことも無い知らない人達だし、練習もしたけどみんないい加減なんだよね。今から考えるとすごい変な話なんだけど、でも良いんだよ、それでね(笑)。

 みんなは演奏終わってるのにこっちはまだ演奏してたり、こっちは終わってるのにみんなはまだ演奏してる。譜面がわからないんだね。極めつけはみんなでユニゾンのところを演奏すると全部違う音がする(笑)。

 それで一週間ぐらい名古屋近辺を旅公演したわけですよ。

 その旅公演が全部終わった段階でマネージャーに「公演で使った汽車賃や食費、宿代とか旅行の費用はどうなるんだ」って訊いたんですよ。そしたら「お前わかんないのか、全部給料に付いてるんだ」って言われて、貰った給料が高かったんだよね。

 フランク永井の歌で《13800円》っていう歌が流行ったんだけど、それが当時の大卒の初任給の平均額で、その頃こっちは簡単に1万5千円とか2万円、ちょっと演奏が上手いとかになると3万円なんていう額を貰ってたんですよ。そういう時代で、これならアルバイト感覚で多少良いか、と思ってテイチクに入って、それからまた何回か旅公演に行ったんです。

 旅公演のバックバンドっていうのは一回の旅公演が終わる度に解散になって、つまりクビになったんだけど、僕だけまだ学校出たてで大真面目でしょう。ちゃんと楽譜の管理してたり、練習の時「ここの音が違う!」って主張したりで、なかなか面白い奴だと思われて、楽譜の整理係も兼ねて僕だけ残されたんですよ。それから事務所で寝泊りさせてもらうようになって、次の旅公演のための準備をしたりしていたんですよね。

 そうしたら、5月の末になって突如として「これから3ヶ月間、田端さんが映画の撮影に入るから事務所を解散する!」って言うんだね。つまり解雇。今で言う「派遣切り」だよね。

 それでどうしようかと思っていたら、江ノ島の海浜ホテルで、ピアノ・トリオの中で弾くピアノ奏者を探している、ということがわかったんですよ。

 座付きでそこにずっと住んでいられて、従業員と同じように食事が出来て、季節はこれから夏だし、夜にピアノ弾く以外は江ノ島の海岸で一日中泳いでて良い、っていう条件だったもんだから行ってみたんです。

 そしたら、そのピアノ・トリオっていうのがすごくてね。ピアノとサクソフォーンとね、太鼓だよ(笑)。陸軍軍楽隊に居たっていうおじいちゃんがサクソフォーン吹いてましたけどね。それにしてもピアノ・サクソフォーン・太鼓って、こんなピアノ・トリオ無いよね(笑)。

 それでもなんだかんだと6,7,8月とそこに居て、あの辺りは特にお金使うような所も無いもんだからそれなりにお金は貯まるし、こりゃしばらくここに居ようかなと思っていた矢先に、田端さんの所から「またもう1回戻れ」って連絡が来たんですよ。

 でもまた数ヶ月で辞めさせられるんじゃあ不安定でしょうがないから、そんなことはしないようにちゃんと約束させて、それでまた田端さんの所に戻って旅回りを始めたんです。“75日間旅回り”なんて時もあって、それは今から振り返ると、色々な地方の場所を見れただけでも、本当に大いなる経験になりましたね。






クラヴィオリン


小島策朗クラヴィオリン


 旅回りとかで地方に行くと、劇場でもピアノが無い所があって、そういう時には田端さんのバンドで持ってたアコーディオンを持っていったりしてたんだけど、鍵盤が横についてたりで慣れなくてしょうがない。どうしようかな、としばらく考えていたんです。

 そんな時、田端さんのバンドに入って1年ぐらいして、浅草国際劇場で公演した時に、浅草のコマキ楽器店が、ちゃんと歌のバックのメロディラインの基本の音が出せて、バンドの他の楽器は音程が悪くて当てにならないからね(笑)、アコーディオンより綺麗な音色で、今までに無い音色が出せて、しかも持ち運びが出来る楽器、ということで売り込みに来たのが「クラヴィオリン」なんだよね。


クラヴィオリンセッティング1 クラヴィオリンセッティング2

クラヴィオリンセッティング3

日本はもとより世界的に貴重な、実際に稼動する“現役クラヴィオリン”(2009年取材当時)を御厚意により、本取材のためにセッティングしてくださいました。
※ 2020年現在、写真のクラヴィオリンは故障のため、音が出ない状態です。





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