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「コンビーフ丼」話譚(1)





(1)


 作曲家 小杉太一郎の母・操(みさを)の兄は、戦前からアメリカに移住しており、日本との戦争が避けられないとみるや、戦中の食料不足を心配し、操のところへLibby(リビー)社のコンビーフをはじめとする食料品を、戦争が終わってもまだ残っているほど大量に送った――――――


 1949(昭和24)年春から太一郎は東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)作曲科に学んだが、その頃、小杉家を訪れた学生仲間達は「コンビーフ丼」なるものを振舞われた。中でも、在学中に家業の織物問屋が振るわず、自分の生活費は全てアルバイトで稼ぐという極めて苦しい生活を送り、仲間達から度々食事等の助けを得ていた後の作曲家 三木稔は、この「コンビーフ丼」を小杉家で食べまくった。

 戦後の食糧難により、個人が肉を購入することなど到底出来なかったこの時代、100%ビーフのLibby社製コンビーフを使用した「コンビーフ丼」は、目を疑う大ご馳走である。

 果たして、この「コンビーフ丼」とはいったい何なのか?


 それから約22年後の1971年――――――

 太一郎の長男、驤齪Yは16歳、高校一年生となり、自分の部屋が欲しくてたまらなかった。

 ここで小杉家の暮らしについて簡単に触れておくと、一男二女に恵まれ五人暮らしの太一郎の家は風呂無し2DK、一方、同じ敷地内に在る太一郎の父・勇宅は、操との二人暮らしで風呂付き4LD・Kに茶室が接続されていた。
 このような太一郎宅で自分の部屋を持つことは不可能なため、年頃になった子ども達は、各々太一郎宅以外の場所にマイルームを見出した。

 驤齪Yの妹二人は、いずれ太一郎の仕事部屋として使うつもりで建てられ、結局使われることなく物置となっていた「離れ」(車2台が入る車庫の上に建てられ、10畳の洋室、3畳の和室とトイレ・風呂が備え付き)に移り、驤齪Yはというと祖父・勇宅の使われていない和室に手製のベッドを設え、太一郎が使わなくなったステレオセットをセッティングしてそこで暮らしはじめた。

 普段、驤齪Yはラジオの深夜放送を聴くなどして朝の4、5時頃まで起きており、夜中にお腹が減ると台所でインスタントラーメンなどを作って食べていた。
 時には深夜の台所で、手洗いに立つ祖母・操と遭遇することもあった。

 そんなある夜更け、これから夜食を作ろうとしている驤齪Yに操が「私が夜食を作ってあげよう」と声を掛けた。程なくして驤齪Yの目の前に出された料理、それは―――――― 


「コンビーフ丼」だったのである。





「コンビーフ丼」話譚(1)/(2)




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