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小杉さんの思い出


エピソード1

 1976年の盛夏、小杉太一郎氏が亡くなったとの報に接し、その葬儀に参加させていたゞいた。
 かつて伺っていたのだが、俳優・女優の方々が親族に沢山居られて、山内明氏、滝花久子もいらした。何よりも父上であられる小杉勇氏の痛々しいほどの姿に皆、悲しみを新たにした。太一郎氏が亡くなったのではなく、その父上と思った人々も多くいたという事はあとから聞いた。
 伊福部先生の追悼文を眞鍋理一郎氏が代読して、せみしぐれの中を歩いた。


エピソード2

 作曲家にしても演奏家にしても一本の作品が出来上がる事はうれしいもので一つの達成感がある。まして作曲は短い打ち合わせ時間で最大限の効果を出す音楽を書かなければならない。ダビング(音楽録音)が終わったよろこびはすばらしかったものである。小杉氏は鉄砲仲間とダビング明けに旅行をし、その土地土地の風景を見て、レモン丸かじりにいやだった事を皆忘れたということである。


エピソード3

 作曲家は純粋な自分の音楽はなるべく早く音にしたいものである。映画にしても劇伴にしてもそれがチャンスで、作品の一部をテストすると小杉氏に聞いた。低音楽器の一部の人がまったくお手上げだと云っていた事があった。そしてとても録音出来る状態ではなかった。


スタジオ録音現場での小杉太一郎氏
スタジオ録音現場での小杉太一郎氏



エピソード4

 日活の齋藤武市氏の作品で中近東方面の活劇ものと記憶しているが、小生の保有しているクラヴィオリンなるものはピッチベントが出来るので、一時期面白がられたものだ。中近東メロディを一緒に演奏するオーボエ奏者のお許しを得て、わざと4分の1半音の差で同じメロディを弾いた。これは後にも先にも1回だけ小杉氏の実験であった。


エピローグ

 小杉氏がつらい体にむち打ち仕事をなさっていたのに参加出来たのは、1976年の年明け頃のアオイスタジオと思われる。指揮はいつも御自分でなさるのをアシスタントに故 原田甫氏がなさっていた。明らかに体調不良が感ぜられオリジナルの曲を演ずるプレーヤー達も意志の疎通がみられた。
 
 ある時「映画音楽は簡単ですよ」と何気なく云われて、その気になっていた事もあったが、実は大変な仕事である事が年を経る毎にわかって来たようだ。


Requiem Aeternam
TAICHIRO KOSUGI


25 May 2012


クラヴィオリニスト
小島 策朗




小島策朗 氏 略歴





小杉太一郎 研究活動

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