移住先のスペインで奥様を亡くされた池野先生は、2004年の3月に帰国。
弟の池野功さんが群馬県から出てこられ、病を患っていた池野先生の御宅で身の回りのお世話、主に食事を作られていた。功さんが一時、群馬に戻られる時には、当時御宅から電車で10分ぐらいのところに住んでいた私が代わりに泊まり込んで食事を用意した。
食糧が少なくなれば買い出しに行かなくてはならない。行き先は府中の伊勢丹。
私が池野先生の車を運転し、まだそんなに具合が悪くなかった池野先生も購入品をメモして同行された。
池野先生の朝はコーヒーでもジュースでもなく紅茶からはじまる。
御宅に泊まり込み、翌朝起床してまず最初にするのは紅茶葉を急須に入れ、お湯をそそぐことだった。
その次に鍋に卵と卵が浸るぐらいの水を入れ、4分間沸騰させる。
エッグスタンド―――。
私はエッグスタンドというものを池野先生の御宅で生まれて初めて使用した。
ゆであがった卵をエッグスタンドに設置し、スプーンで卵のてっぺんを叩く。てっぺんの殻にはヒビが入り、それを取り除くと卵にポッカリと穴が開く。その穴へ食卓塩をふりかけ、スプーンで中身をすくって食べる。
「目玉焼き」や「ゆで卵」ぐらいしか知らなかった私は、こんなお洒落な食べ方があるのかと感動し、なんだか貴族のような気分になった。
池野先生が朝食べるパンは決まっていた。
府中・伊勢丹の地下に今もあるベーカリー「アンデルセン」のフランスパン。これを厚く斜めに切ってオーブンで焼き、バターをたっぷりつけて食べる。
紅茶・エッグスタンドの卵・フランスパンのトースト。これが私が泊まり込んだ時のお決まり朝食3点セットであり、これで物足りない時には、キャベツとコンビーフを炒めるだけという激烈に簡単だが激烈に美味い「キャベツ・コンビーフ」を追加する。
池野先生が言われるには、音楽大学でレッスンがある日は午前中にこの3点セットを食べ、レッスンが終わると生徒さんと何か(十中八九「とんかつ」)を食べに行き、帰宅してから夜食を食べて、朝5時頃まで起きているのがいつものパターンということだった。
池野先生に教えてもらった料理がある。これがおそろしく美味い。
豚のバラ肉と適当な大きさに切った高菜漬けを炒め、そこに水と「だしの素」、うずらのゆで卵を加えてしばらく煮る。
文章にすると簡単だが、バラ肉と高菜漬けの炒め具合、加える水と「だしの素」の分量、煮る時間、いずれも具体的には決まっておらず、最高の出来にするには鍛練を要する。もとは中華料理らしく、池野先生もよくこの料理を奥様にリクエストしていたという。
しかし、この料理の名前がわからない。私と池野先生は「豚肉と高菜を炒めて煮たやつ」と呼んでいた。
私の記憶が確かなうちに作り方の詳細を記録に残しておかなければいけない。
池野先生は口に合わないものはいっさい食べない。見事なぐらい食べない。しかし、すき焼きは食べる。作れば食べる。凝った料理は作れないので、献立に困った時はすき焼きにした。
冷蔵庫に牛肉の切り落としが入っているとホッとした。
「モロゾフのチーズケーキ」(一)/(二)
池野成 研究活動