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南美川洋子Salidaインタビュー

南美川 洋子 氏 略歴




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―――南美川さんは名古屋の御出身で小学生の時から児童劇団に所属されていたそうですね。


 小学校3年生の時にNHKの児童劇団に入りました。
 といっても実際は私が知らない間に小学校の担任の先生が推薦したみたいで、気がついたら児童劇団員になってました(笑)。



―――児童劇団員としてラジオやテレビに出演されることもおありだったのでしょうか。


 あの頃はテレビが多かったです。テレビでドラマをやったり、だんだん高学年になってくると『中学生日記』の仕事もありましたね。

 ただ、当時は児童劇団員の出演料っていうものが無いんですよ。出演料の代わりにバス代をくれるんですね。当時10円。往復20円なんですけど、私、ものすごく稼ぎ頭だったんです(笑)。劇団員がけっこうたくさんいたんですけど、“1日20円×1ヶ月間のお仕事の日数”としていただくバス代が一番多かったんです。

 小学校を卒業した後は東京に移りまして、新しく東京の中学校に入りました。



―――その後、見学に行かれた日本教育テレビ(現・テレビ朝日)でプロデューサーにスカウトされてテレビドラマ『あゝ同期の桜』(NET 1967年)に出演されますね。


 これが東京では初めてのお仕事でした。
 土浦まで毎回毎回電車に乗って行くんですよ。着くと霞ヶ浦でロケをして。 仕事が終わると大好きな納豆と梅のお菓子を買って帰ってくる。もうそれが楽しみで(笑)。



―――翌1968年に大映と専属契約を結ばれますが、それまでにプロダクションには入られていたのでしょうか。


 入ってました。今思えば現在の「青二プロ」の前身にあたるプロダクションなんですよね。そこを通じてスカウトされるかたちで大映に入ることになりました。まだ17歳になるかならないかぐらいの時ですね。
 そんなふうにいきなりボンッと大映に入って、いきなり主演をいただいて、ものすごく幸運なスタートともいえるんですけど、反面、演技の勉強をする時間とかがまったく無いわけですよ。



―――そして映画『ある女子高校医の記録 妊娠』(1968年 監督:弓削太郎 音楽:池野成)で映画デビューされますが、タイトルをお知りになった時は「えっ?!」と思われませんでしたか。


 思いましたよぉ。映画についてのインタビューを受ける時は喫茶店とかだいたいそういうところなんですけど、タイトル言えないですよ(笑)。だから

「ある女子高校医の記録......、(ものすごく小さな声で)に・ん・し・ん」

 とか言って(笑)。人前でまともに言えないですよね。
 でもそういうタイトルではあるんですけど、内容は社会派のしっかりした良い映画ですから気にせずに演じてました。なによりあの頃は撮影が本当に楽しかったですしね。

 あと、自分が出る以外のシーンって知らないんですよ。出番が多かったんで自分以外のシーンの時はお休みになることが多かったんです。デビューしたばっかりの頃はまだ時間があったからラッシュとかが観れたんですけど、だんだん忙しくなってくるとラッシュも観れない、映画館にも行けないという状態で。ですから、最近催される上映会やDVDではじめて最初から最後まで観させていただいて「ああ、こういう映画だったんだあ」って(笑)。いまだに出演はしていても私自身観たことがない映画が何本かあるんですよね。



映画『妖怪大戦争』ポスター&CD「池野成の映画音楽 牡丹燈籠 妖怪大戦争」記念撮影。


南美川さんの御厚意により『ある女子高校医の記録 妊娠』と同じ1968年に公開された映画『妖怪大戦争』(大映京都 監督:黒田義之)ポスター&CD「池野成の映画音楽 牡丹燈籠 妖怪大戦争」と記念撮影。







―――初めて出演された映画の監督が弓削太郎監督でいらっしゃったわけですが、弓削監督の印象はいかがでしたか


 静かなんですけどやさしいのが伝わってくる寡黙さってあるじゃないですか。そういうようにいつもやさしい感じで、怒られたことは一度もないですね。
 背丈は高くもないし、低くもない。太ってるか痩せてるかっていってもどちらでもなくて中肉中背。さわったことはないんですけど、髪の毛もやわらかそうで。天然パーマでらっしゃって、クリクリしててかわいかったです(笑)。それから、肌が綺麗!思わずさわりたくなるようなきめ細かなプルンとした肌がすごく印象的でした。
 あと、たしかよくタバコを喫ってらっしゃったんですよ。増村保造先生もタバコ喫われるんですけど、子ども心にもなにか似ているような気がして。



―――南美川さんが新人ということで弓削監督が演技指導などで気を使っていると感じたことはありましたか。


 いえ、あの頃は演技指導とかなくて、もう普段通りにしゃべればいいわけですよ。当時、私は17歳で現役の学生でしたから、映画の役柄とまったく同じで自然にそのまんまセリフを言えばよかったみたいで。そのことで誰かに注意されたっていうこともなかったですね。

 事前に本読みとかもないので、いきなり現場に行って、2、3回リハーサルして、照明をなおして本番。 テレビとは違って長回しはせずにカット、カットで撮っていくので、セリフはそんなにたくさん覚えなくていい。そんな感じなのでちゃんとセリフさえ頭に入れておけば苦労は無かったんです。ですから逆にテレビの『椿の散るとき』(TBS 1970年10月〜1971年1月 出演:田村正和 他)をやった時は本当に苦労しました。


『椿の散るとき』田村正和と共に。

『椿の散るとき』田村正和と共に。






―――弓削監督は撮影が早い、いわゆる「早撮り」だったと聞いたことがあるのですがいかがでしょうか。


 早かったです。
 あと、私たちもセリフを何回も言ってると、それこそ演技っぽくなっちゃうんじゃないかと思うんですね。ナチュラルに自分の言葉でセリフを言う感じをねらってらっしゃったと思うので、リテイクを重ねることはまったく無くて、撮影はスムーズで早く終わりました。

 でも、一番早かったのは森一生監督。あの方は早撮りで有名で、ものすごく早くて。
 ですけど、どなたかが「べつに早撮りだからって、手を抜いて撮ってるわけじゃない。それは才能なんだから、けっして悪い意味での早撮りじゃないんだ」っておっしゃってて、ああ、そうなんだなあと思いましたね。


上妻祥浩さん取材同席。


本取材には著書『大映セクシー女優の世界』(河出書房新社)の中で南美川洋子さんについて執筆されている上妻祥浩さん(写真右)も同席くださいました。






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