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ompany【 作曲家 池野 成 考 】



我が師 池野 成先生
小倉 啓介 インタビュー




第1回
音楽との出会い


 私の父親は普通に会社に勤めているサラリーマン、母親も着物の着付けの先生をやっているぐらいで、いわゆる音楽家の家庭で育ったわけではまったくなくて、身近に音楽家がいたというわけでもありません。ですけど、物心ついた5歳くらいの時にはオーケストラの指揮者になりたいと思っていましたね。まあ、でもその頃は物事の区別がつかないので、漠然と「オーケストラになりたい・・」と思っていた、という方が正解ですね。

 というのも、父親が絵を描いたり、自分で何か模型工作をしたりとか、そういうことが割りと好きな多趣味な人間で、当時、河出書房で出ていたクラシックの名盤レコードシリーズを収集していたんですね。今にして思えばミュンシュ・ボストンとかロジェストヴェンスキー・ソビエト国立とかの大変な名演集なんですけど、それを私も父親にせがんで片っ端から聴いていました。それと同時にまだ文字も読めなかった頃なんですけど、ブックレットに載っている指揮者やオーケストラ、楽器や楽譜の写真を眺めながら、あれやこれや空想を膨らませていましたね。

 オーケストラという存在は生身の人間の集団ではなく、何か人間以上のデーモニッシュなものが音の中に入っていて、様々な表情でダイレクトに語りかけて来る、というイメージを持っていたんですね。それで後々メロディーを覚えて頭で再現すると「音楽」という生き物が体の中で踊っているような感じで、その体験にワクワク・ドキドキするのが面白くて仕方なかったのをよく覚えています。そんな訳で子供心に「指揮者になりたい・・」ではなくて、「オーケストラになりたい・・」と思っていたようです。


仕事部屋での小倉氏(1)
仕事部屋での小倉氏
仕事部屋での小倉氏(2)


 その後、ピアノを習いたいと母親に頼んだのですが、一般家庭でしかも男の子で音楽なんてのは絶対良くないからといわれて、しかも当時は東京のひばりヶ丘にある団地に住んでいたので、音も出せないし、ピアノなんてとんでもないと散々反対されましたね。それでも1年間とにかく頼み込んで、何か大分食い下がったらしいんですよ、全然覚えてないんですけど(笑)。そうしたら渋々、何かヤマハの音楽教室みたいなところへ連れて行かれて、そこでエレクトーンの前身のようなエレピアノという当時の電気ピアノを買ってもらって、しばらく鍵盤押して鳴らしていました。でもやっぱりこんなのじゃ絶対嫌だ、とまたごねて(笑)。それで結局さらにそれから半年位たって、やっとピアノの先生のところへ連れて行ってもらって本格的にレッスンを付けてもらったんですね。ピアノもアップライトを買ってもらいました。お隣さんが壁叩いたりなんかして苦情はしょっちゅうでしたけど(笑)。それが小学校に入学する前の6歳、幼稚園の時ですね。

 ところが、ピアノを習ったのはいいんですけど、トレーニングのエチュードが嫌いで嫌いで逃げ回っていたんです。そしたらあの散々反対していた母親が、逆にそういうところにものすごく厳しい人で、習ってる以上はちゃんとやれって言われて、もう横に付いてピアノの前に引きずり戻されて泣く泣くやっているうちに、弾けるようになってきて最後には面白くなってきちゃったんですね。それで小学校に入学して1、2、3年生の頃はずっとピアノを熱心に弾いてました。
 特にピアノでオーケストラの曲を弾くのが楽しくてしょうがなかったんです。だけど、自分で1冊スコアを買ってきて見たんだけど、移調楽器なんか全然分からないもんだから、これは困ったなと思いました。それでこの頃からこういう勉強がしたいなという気持ちが徐々に出始めてきましたね。


  小倉啓介 with piano(2012) 池野 成 with piano(2004)
 無意識にして頂いたピアノでのポーズが師と酷似
(小倉氏に“こういうポーズをしてください”という注文はいっさいしておりません)


 そんな幼少期に一大事件が起きまして、父親が生のオーケストラを初めて聴きに連れていってくれたんですよ。山本直純 指揮、小林 仁 ピアノ、東京文化会館での新日本フィルハーモニーの演奏会で、プログラムはベートーベンのレオノーレ序曲第3番、ピアノコンチェルト第5番「皇帝」、交響曲第5番「運命」でした。なにより一番の衝撃は「オーケストラが人間の集団だった」ことでしたね。それでようやく子供心にも「どうやらオーケストラになることはできないけれど、オーケストラをコントロールする為には指揮者というものになればいいんだ」ということがわかったんです。

 それで小学校を卒業する頃には、これはもうやっぱり音楽の学校へ行って早く指揮者になる勉強を始めたいな、とモゾモゾしてたんですよ。やがて国立(くにたち)音楽大学に付属の中学校があることを知って、そこを受験して中学からは音楽学校へという、小学校の仲間たちとは1人だけ違う別のコースに進む事になりました。ただ、指揮科というのは中学ではまだないのでピアノ専攻での入学です。


 そして、中学の入学も決まった12歳の春先の事だったと思います。それまで習っていたピアノの先生からこう言われたんですよ。

「指揮者になりたいのなら和声学の勉強を始めた方がいいので作曲の先生を紹介します。国立大学で作曲科の教授をしている偉い先生に習いたいか、それとも今までレッスンを全くしたことが無いけれども、現役プロで作曲活動をしている作曲家に習いたいか、どちらがいいですか?」

と、好きな方を選んで良いと言われたので、もう躊躇無く、

「学校の先生より、現役プロの作曲家に習いたい」

と即答しました。そしたら、

「じゃあ、幸いすぐ近所に住んでるから」

ということで、車で迎えに来て頂いて、その作曲家のお宅に連れて行ってくださったんですよ。

 それが運命の分かれ道でしたね(笑)。





第2回 作曲家 池野 成の一番弟子




我が師 池野 成先生 小倉 啓介 インタビュー


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