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ompany【 作曲家 池野 成 考 】



我が師 池野 成先生
小倉 啓介 インタビュー




第11回
藝大 松村禎三クラス





 そんな訳で、もう二度と受験しないと思っていた藝大の学生になったわけですね(笑)。

 池野先生も藝大に管弦楽法を教えにはいらしてたんですけど、私が大学1年生の時はピアノとか楽器専門の学生が副科として勉強するための本当に基本的な管弦楽法の講座を担当されていたんですよ。
 ですから管弦楽法の講座で池野先生に会うということはなくて、今もある藝大の学食の「キャッスル」で会ってお茶飲んだり、学校が終わると一緒に帰ったりするという感じでしたね。引き続きお宅にもしょっちゅう伺ってました。  


 作曲科のクラスは当然のことながら浪人中から声をかけてもらっていた松村禎三先生のところに入ったわけですけど、クラスに行ってみてまず驚いたのが、同級生も含めて周りに年の近い人がまったくいないんですよ(笑)。

 その時松村クラスに入ったのは、私とMという今はドイツで作曲活動をしている人がいるんですが、その二人だけだったんです。
 私は一浪して藝大に入ったわけですけど、Mっていうのは驚くことに六浪して入ってきたんですね。私から見たらほとんど社会人ですよね(笑)。しかもその時の松村クラスには大学2年生、3年生、4年生がいなくて、もういきなり大学院の先輩ばっかりだったんです。

 そういうメンバーでレッスンを受けるわけですけど、松村クラスのレッスンは誰かが今書きかけの作品を松村先生に交代に見てもらって、意見や先々の展開についてのアドバイスをいただいて、他の同室した学生もそれを一緒に見聞きして勉強・参考にするというものなんですね。

 それでとにかく右も左も分からない状態でレッスンに参加したんですけど、そしたら松村先生が

「小倉とMは、僕の隣に来て一緒に先輩の作品をまず率直に思ったとおり批評しなさい」

って言われたんです。ですから

 ―――ああ、これは遠慮しなくていいんだな。

と思って、ある先輩の作品を見せていただいた後、正直に

「大変失礼ながら、これはとんでもない作品ですね。こんなつまんない音楽を書いて……、いや、こんなものは音楽じゃない」

とか思ったことを全部言っちゃったんですよ(笑)。
 まあ簡単にいえば、大学に入りたての1年坊主が大学院の先輩が苦労して書いたフルオーケストラ作品をクソミソにこき下ろしたんです。

 そしたらさすがにその先輩が怒ったんですよね(笑)。周りの先輩達も同情して一斉に立ち上がってもう反論の嵐になったんです。
 ですけどこっちは12歳の時から池野先生に音楽的な思想などを教わって自分なりに試行錯誤を重ねてきたこともあって、お互い言いたい事を言い合ってたら結局先輩達の方が言う事が無くなって黙っちゃったんですよ。もうイヤーな顔されて(笑)。

 それでその時に松村先生は「先輩に向かって何て失礼なことを!」と私をたしなめるのかと思ったら

「日頃からこいつらの根性は生ぬるいから小倉の言うことはもっともだ。小倉、もっとやれ!!」

ってゲラゲラ笑ってるんですよ(笑)。

 それ以降、こいつに最初ケチ付けさせれば自分が言わなくても代わりに言ってくれると思われたらしくて(笑)。誰かが作品を持ってくると「おい、小倉!どう思う?」ってまず私にふってきて、私が散々けなした後に「いや、小倉の言ってることはこういうことだ」と松村先生が批評されるようになったんです。随分と損な役回りをさせられました(笑)。

 当時そんなふうに私にけなされた先輩というのが、Tさん、Sさん、Nさん、Iさん、Kさん等々の現在大変にご活躍されている作曲家の方達なんです(笑)。

 こんな感じですからレッスン直後は先輩達とものすごく気まずい雰囲気で(笑)。だけど松村クラスはその後に必ず「仲直り」といって上野にあるビヤホールにみんなで行くんですよ。その時はもう本当にくだらない話ばかりして盛り上がって、それで仲良くなるんです。私はお酒が飲めないんですけど、そういう場はやっぱり面白かったですね。
 ある時、酔っぱらった勢いでみんなでサウナになだれ込んだことがあったんですけど、松村先生がいたずらしてサウナ室にSさんだけ残して外から扉押さえて閉じ込めて、サウナ室の温度を最高に上げたんですよ。そしたらSさんが中でひっくり返って大騒ぎになりました(笑)。

作曲家 松村禎三・池野成
1989年、小倉氏の結婚式に主賓として招かれた作曲家 松村禎三と池野成


 藝大の作曲科というところは学年ごとに提出作品が決まっていて、1年生がデュエット、2年生がクァルテット、3年生がオーケストラ作品と歌曲、4年生が自由作品なんですね。
 1年生の私はピアノとトロンボーンのデュエット作品を作曲することにして、少しずつデッサンを書きためていたんです。

 大学1年生の前半はまず松村クラスはどんな感じか様子を見ようと思っていたので、その自分が書いている作品はいっさい持っていかずに先輩の作品ばっかりけなしてうるさがられて(笑)。それで夏休み明けぐらいに一度その書きかけの楽譜を松村先生しかいない時を見計らって持っていったんですよ。他の奴に見られたら日頃の恨みでメッタ斬りにされると思って(笑)。

 そしたら「ちょっとピアノで弾いてみろ」って言われたのでガーッと弾いたら、松村先生が横で黙って聴いてらして最後に一言

「もっとやれ」

とおっしゃったんですよね。

 それから何回かレッスンで見ていただいて、その時は周りに先輩達もいたんですけど、とにかく「ピアノで弾いて聴かせろ」と言われるんですよ。しょうがないから弾くと先輩達がどうこう言う前に松村先生が私の横にピタッと貼り付いて聴き出して

「もっとやれ、もっとやれ。こんなんじゃ足りないからもっとやれ」

とか言って散々煽るんです。松村先生がそう言っちゃうもんだから、あとは誰も何にも言えなくなって、私の作品を見てもらう時は全然言い争いにならなかったんですよね。

 結局、締め切り日の朝ギリギリまでかかって《Introduzione e Allgro》という作品を書き上げて提出したんです。この作品は後に山本禮子バレエ団によって振付初演される際、タイトルを《Composition》―TbとPianoのための―に改めました。


 提出作品に対しての評価は最高が“秀”なんです。「藝大買い上げ作品」なんていうのは審査された先生方がみんな“秀”をつけた作品ですよね。二番目に良いのが“優”で三番目が“良”。その次は“可”で最後に“不可”というのがあるんですが、これは単位を認めないという意味なので、実質的な最低評価は“可”になるんです。

 1年生の提出作品というのは演奏審査なんですけど、その発表会が終わった後に松村先生の感想が聞きたくて自分で電話したんですよね。そしたら松村先生はしばらく「う~ん……」と唸ってたんですけど(笑)、

「かなり良いと思った」

とおっしゃったんですね。

「僕の両隣が浦田健次郎と野田暉行だったけど二人とも“秀”つけてたよ。あとはみんな“可”だったけど、そんなの気にしなくていいから。アッハッハッハ」

 私の作品には“少数の最高点と多数の最低点”という評価がいつもつきまとうんですよ(笑)。もう白か黒かみたいな世界でダメな人には完璧にダメなんですよね。いわゆるアカデミックな傾向の作品を好まれる先生からは常に評価が低いわけです。 

 ただ、幸いなことにこの《Composition》は池野先生にも大変評価していただいて、

「黛敏郎さんにも是非聴いてもらうといい」

と勧められたので、黛先生が藝大にいらした時に録音を聴いてもらったら非常に誉めてくださったんですよ。野田暉行先生にも感想を伺ったら

「いや、君良いよ。とにかく“聴かせる”という意味ではとても良く書けてた」

とおっしゃっていただいたんですよね。

 《Composition》―TbとPianoのための― 楽譜
《Composition》―TbとPianoのための― 楽譜


 演奏審査でのピアノは私が自分で弾いたんですけど、実はこの時にトロンボーンを吹いたのが今は指揮者として活躍しているHなんです。
 Hは付属高校の同級生で、私はあいつの専属ピアノ伴奏者だったんですよ。もう高校生の時から練習の伴奏であいつにずーっとついて回ってたんで「今がお礼をする時だよ」と言って(笑)、トロンボーンを吹いてもらったんですよね。

 Hは高校の時からトロンボーンの大家である伊藤清先生に師事していたので、レッスンの時に私も伴奏で一緒にしょっちゅうお宅へ伺って伊藤先生には大変お世話になっていたんですよ。
 そういうこともあって《Composition》でのトロンボーン奏法は伊藤先生にも見ていただいてご指導を受けているんです。


 それで演奏審査が終わったある日、またHと一緒に伊藤先生のところでレッスンを受けて帰ろうとしたら伊藤先生に「小倉君、小倉君」って呼び止められたんですよね。

「小倉君、何かトロンボーンの曲書いてくれよ」

「わっ、先生それはもしかして委嘱ですか。だけど僕まだ学生ですよ」

「いやあ、とにかくこの前の曲聴いてね、興味があるんだよ。君がどういう曲を書くか」

「ありがとうございます」

 思いがけず嬉しい展開になったので、さっそく池野先生に報告したら、もう第一声

「小倉君、それはチャンスだ!」

って言うわけですよね。それで書こうと思ったら、松村先生から

「おまえは今、トロンボーンの曲を書いている時期ではない。とにかくオーケストラの初作を書きなさい」

と横槍が入って(笑)。ですけどこっちの気持ちは完全にトロンボーンにいっていたので「オーケストラも書きますけど、とにかくこちらを書きたいので」みたいなことを言って強引にデッサンを書き始めたんですよ。


 最初の構想ではトロンボーンを8本か9本使ってそれにティンパニを加えようと考えていたんですけど、伊藤先生が「地方に行った時でも演奏出来るようにトロンボーンだけで書いて欲しい」と希望されたので、それじゃあトロンボーンのノネット(九重奏曲)にしようかということで進めていったんです。

 その頃、浦田健次郎先生の影響でチベットのラマ教の音楽をレコードで聴いて「こりゃ、面白いもの聴いた」と思ったんですよね。池野先生とも色々話したりして、そういうことから着想を得たデッサンをとにかく書きためていきました。
 それでHとかトロンボーンの友達や先輩を集めて実際に9人で吹いてもらって「ペダルトーンはこの音域でこの長さでやると倍音がこういうふうに響く」とか「この音とこの音はこういう不協和音になってる」等々、散々実験や研究をしたんです。

 それでまたその実験・研究の録音を池野先生がとても聴きたがるんですよ(笑)。デッサンも松村先生にはほとんど見せなかったんですけど、池野先生にはしょっちゅう見せてたわけです。だから、この何年か後に池野先生がトロンボーン12本と打楽器のために書いた《古代的断章》という作品には、あの時の研究がかなり貢献してると思うんですよね(笑)。


 ところが、そうこうしている間に松村先生が知らないところで伊藤先生に電話して、

 ―――小倉はね、自分ではやるつもりでいるらしいんだけど、僕から見るとあいつは今トロンボーンの曲書いてる時期じゃないから、お断りさせていただきます。

 ―――いやあ、それは私が軽率でした。もうちょっと小倉君の時期を選んでまた改めて委嘱します。

って勝手に委嘱を引っ込めさせちゃったんですよ。

 だもんだからこっちはもう「なんて余計なことをしてくれたんだ!」と怒り心頭で松村先生に抗議したわけです。



 ―――結局これが松村先生とのバトルの幕開けなんですよね(笑)。










第12回 藝大2~3年生


我が師 池野 成先生 小倉 啓介 インタビュー



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