第3回
作曲への感興
どういう経緯でそうなったのかよく覚えてないんですけど、ある時、池野先生が
「録音現場というものを見てみますか?」
と言われたんですよ。それから
「吉澤博さんという人に紹介してあげるから。指揮のレッスン頼めるかも知れないよ」
とおっしゃるんです。
吉澤博さんといったら、スタジオ専門の指揮者で、秒単位で細切れになった映画フィルムを目の前で上映しながら、ストップウォッチを片手に決まった秒数にピタリとオーケストラを指揮して合わせる、その世界では超名人・天才と言われた方ですよね。
その腕利きの指揮者がいて、現場の仕事の良い勉強にもなるということで、その録音現場に私も一緒に連れて行ってくださったんですよ。
指揮者 吉澤博
(写真提供:吉澤博寿)
たしかアバコ・スタジオだったと思うんですけど、そこに着いて早速、吉澤さんに紹介して頂いて、スコアをチェックするという建て前上の役目で、吉澤さんの横に座らせてもらいました。池野先生はミキサールームにいらっしゃいましたね。その時録音した先生の曲についてはよく覚えていないんですけど、映画の劇伴であることは間違いないですね。
そうして録音が始まって、しばらくしてから録音のプレイバックがあったりすると、その合間に吉澤さんが、
「指揮者になりたいんだって?」
「棒は誰かに習ってるの?」
と色々話しかけて下さいました。指揮者のバトンテクニックを“棒”と言うことをその時初めて知ったんですけどね(笑)。
そのうちに
「ここはこう振るとみんな見やすいんだ・・」
「こういうフェルマータはこういう風に扱う・・」
というふうに、名人自らが現場での指揮の極意のレッスンをして下さるんですよ。私の方からも、なんでそこをそうやるのですか、とかいっぱい質問して、それについてスコアの読み方から始まって色々教えてくださいましたね。今考えると中学生の身分でなんと贅沢なことかと思いますけど(笑)。
そして休憩時間になったら、当時のスタジオというのはN響の人達のアルバイト先みたいなもので、プレイヤーがみんなテレビで見る顔の人達ばっかりなんですよ。それで、これは面白いところに来た!!と思って、もう池野先生そっちのけでプレイヤーの間を巡り回って遊んでましたね(笑)。
もともと指揮の良い勉強になるということでスタジオに連れて来て頂いて、吉澤さんにも色々教えて頂いたのですけれど、スタジオに来たことで、もう一つ、生身の作曲家が目の前でピアノをガンガン弾いてデッサンを取って譜面に起こし、オーケストレーションをしてパートを書いて、すぐに音になる。という作曲のプロセスを目の当たりにしたわけですよね。
ミキサールームに行けば池野先生が自分の曲を録っているのをチェックしていて、そういうのを見ているうちに、これは棒振りよりも曲書いてる方が面白そうな仕事だなとやっぱり思いますよね(笑)。
また特にスタジオの指揮者というのは本当に秒数合わせに主眼がおかれていて、いわゆる棒の技術・芸術性といったこととはどうしても離れてしまう。ですから、もしシンフォニーを振るような指揮者と会っていたらまた違ったように感じたかもしれないのですが、結局その時点で、これはもう作曲をやろうと自分の中で確実に変化が起きていましたね。
あと覚えてるのは、スタジオに行く時の池野先生の運転がもの凄く乱暴で、スピードは出すわ、急ブレーキは駆けるわで、もうとにかく行きも帰りも車酔いしました(笑 )。
作曲家 池野成の運転の凄まじさを思い出す小倉氏。
それで相変わらず和声のレッスンも、ちんたらちんたらやってまして、中学2年生、つまり2年間習って、まだ教科書の第2巻の終わりまでしかやってなかったんですね。これはもう相当遅いペースなんですよ(笑)。で、中学2年生の終わり頃に、池野先生の口から
「もし小倉君が上野に行きたいと言い出したら、僕が教えてる内容じゃあ困るんだ」
という話しがチラッと聞こえたんですね。それで
「上野ってなんですか?」
って聞いたら
「いや、藝大のことです」
とおっしゃって、その時は「ああ大学はまだ先だな」ぐらいに思っていたんです。
そうしているうちに、自分はこれから指揮と作曲のどちらを優先して勉強していけば良いのかと悩んで池野先生に相談したんですね。そしたら池野先生が
「指揮者は作曲はできないけれども、作曲家になれば指揮をするチャンスは有る」
という言われ方をしたのですよ。
ああ、それなら自分は作曲専攻でやって行きたいですという話になって、そのうちに東京藝術大学付属高校には作曲科があるということがわかったもんですから
「藝大の附属高校に作曲科が有るので受験してみたいです」
と池野先生に話したんです。
そしたら、即座に連れて行ってくれたんですよ。池内友次郎先生のところに。