第4回
死闘 池内友次郎レッスン
藝大の附属高校に行くんだったら、とにかく一刻も早く池内友次郎先生のところに行かなきゃいけないっていうことになったんですね。それで即座に、私の母親も同行して池内先生のところに連れて行って頂いたんです。
池内先生のお宅に伺う当日、まず池野先生のところに集合したんですけど、ふと見たら池野先生の首の付け根が刈り上げになってて少し青いんです。床屋に行って身なりを整えられてて、明らかに緊張でソワソワしているのがわかるんですよ(笑)。
当時、池内先生は奥様を亡くされて、娘さんご夫婦のお近くに住まわれるために鎌倉のご自宅を売却されて、ちょうど四谷のマンションに越して来られたばかりの頃でした。約束の時間のだいぶ前に四谷に着いたので、車をどこかに駐車して、3人でコーヒーを飲んだんです。その時に池野先生から、池内先生は高浜虚子の次男で、パリに留学してモーリス・ラヴェルやシャランに師事されたといった予備知識を教えて頂いたんですよ。
そして池内先生に初めてお会いしました。池内先生は自宅ではいつも真っ白の絣の着物を着ていらっしゃるんですけど、母親はその姿がとても品の良い聡明な斬れる印象で、随分と緊張したそうなんですが、私は
―――変な爺さんだな…
とだけしか思わず(笑)。
そんなようなことで、その四谷のマンションに一人でレッスンに通うことになりました。
レッスンに行ってみるとまず
「ソルフェージュはどうなってる?」
と聞かれたんですね。
「いやもう全然なにもやってません」
と言うと、そりゃダメだということになって、今も世田谷の砧にある「ゆかり文化幼稚園」を紹介して頂いたんです。
「ゆかり文化幼稚園」というのは、とても熱心に音楽教育に取り組んでいるところで、後に私がお世話になる松村禎三先生も京都から上京した時に、勉強するのにピアノがないと夜ピアノを弾かせてもらいに行ったり、下宿生活が経済的に苦しいことがわかると副園長が家にひきとってくださったりしてお世話になったみたいです。
その「ゆかり文化幼稚園」が、藝大を浪人している人達のためにソルフェージュや聴音の勉強が出来る場所を提供していたんですね。
そのクラスでは藝大の大学院生の方々が講師として来られていて、当時は福士則夫さんや北爪道夫さん、現在の「ゆかり文化幼稚園」の園長である藤田厚生さんがみえてました。
私がそこに通っていた時には、後に作曲家になられる菅野由弘さんや高橋裕さんも一緒にレッスンを受けていましたね。クラスの中で藝大付属高校を受験するためにという中学生は私1人で、さらにその下に小学校6年の女の子達がキャッキャ言いながら楽しそうに勉強してたんですけど、その中にはピアニストの小山実稚恵さんがいました。
高橋裕さんは私の4つ上になるんですが、レッスンが終わると一緒に話しながら駅まで歩いて、その中で私が池野先生のお宅に通うように、裕さんも松村先生のお宅に毎晩のように通っているという話を聞いたりしました。それで駅に着くと裕さんは松村先生のお宅へ、私はまた例のごとく池野先生のお宅へとそれぞれの電車がちょうど反対方向に発車するんですよね。
一方の池内先生の和声のレッスンなんですが、こちらはまだ教科書の2巻の終わりまでしかやってないので普通だったら第3巻に進むのが当然なんですけど、池内先生が
「3巻やらなくていいからさ、この本やってみなさい」
と言われて、今ではもう絶版になってますが、その当時先生が書かれたばかりの『和音外音』という本を出されたんですね。
現在は絶版になっている 池内友次郎 著『和音外音』(音楽之友社)
ところがね、難しいのですよ。もうメチャクチャ(笑)。第3巻を終わった人がやったとしてもまだ難しい本を、いきなりとにかくやらされて。これは困ったと思って、それで池野先生に泣きついたんです。
そうしたら池野先生もちょっと絶句してたんですけど(笑)。とにかく池内先生にダメだと思われちゃうと、どうしようもないからというので、
「とにかく私が紹介した手前もあるので、私が下見します」
とおっしゃったんです。
ひばりヶ丘のお宅には1階と2階の仕事場にピアノがあったんですが、課題が出ると、とにかく池野先生のところに持っていって、私が1階のピアノ、池野先生が2階のピアノと上と下に分かれて同じ課題をやって、お互いに仕上がったら答え合わせをするわけです。それで
「ここはこうだからこのほうがいいと思う。多分池内先生だったらこう言うと思う」
と池野先生と煮詰めて最終稿に仕上げて清書するという勉強の仕方なんです。それを徹夜で学校に間に合う朝5時頃まで掛かってやって、それでも一晩に1、2題仕上げるのがやっとなんですよ。池内先生のレッスンには週3回行ってましたから、つまりそれが毎日なんですね。
それでまた池野先生が30、40小節くらいの1つの課題を仕上げるのに
―――ここまでやるか…
というぐらい粘りに粘るんですね(笑)。私なんかは内心
―――もうこれでいいよ…
と思ってても、池野先生がとにかくこだわって、
「いや、ここを変えた方が良い。もう1回やり直して、もう1回だけ直しましょう」
という具合に正解を見つけてさらに課題の難解さと美しさに見合った仕上がりになるまでは、何度でも何度でも書き直してやり直しなんですよ。
それでようやく仕上がった課題の譜面を手に帰ろうとすると、いつもお宅の裏口から見送ってくださったんですけど、
「ああ、小倉君、小倉君」
と引き戻されて、
「この先、もっともっと辛いことがこんなもんじゃないぐらいたくさんあります。もっともっと体力が必要だからね、とにかく頑張らなきゃいけない…」
という話を、こっちは眠くてフラフラで早く帰って少しでも寝たいと思っているのに、延々と30分でも40分でも話しはじめたら止まらないんですね(笑)。
それでようやく話も終わって、
―――よし!帰れる!!
と思ったら
「小倉君、ちょっとさっきの課題もう1回見せてください。やっぱりこうやるほうが良いかもしれない」
―――って、なんちゅう人なんだ!!!
と思いました(笑)。
そうして出来上がった課題を池内先生に持っていくと、
「ここはダメだ、これはダメだ」
とおっしゃるんですけど、最終的には
「うん、でもまあ根性は有るな」
ということになるんです。でもよく考えてみたらその根性っていうのは池野先生の根性なわけですよ(笑)。
そのうち池内先生から
「正解ではないけれど、これはこれでとてもよく書けている」
と言っていただく事も結構あったんですが、それも明らかに池野先生のおかげなわけです(笑)。そんなふうにして池野先生には随分助けていただきました。
私が池内先生のところに通いだしたのが中学3年になったばかりの4月頃で、それから数ヶ月こういった日々が続いて、7月か8月の夏頃だったと思うのですけど、『和音外音』の課題を全部やっちゃったわけですよ。池野先生の協力を得て(笑)。
それで池内先生に
「先生、次の課題が有りません」
と言ったら、
「じゃあ、今度は自分で課題を作って持ってこい」
と言われて。で、池野先生に
「そう言われましたけど、どうしましょう…」
ってまた泣きついたら
「いや、それはできませんって言った方が良いんじゃないですか」
とおっしゃって(笑)。
それで結局、池内先生が
「僕のところで君にやらせたい課題は取り敢えず全部やらせちゃったから、課題をいっぱい持っている永冨正之君のところに行きなさい」
と言われたんですね。
当時、永冨先生は池内先生のお弟子さんを預かって教えていらっしゃったんですよ。すぐその場で電話を掛けて、池ノ上にある永冨先生のスタジオにお邪魔して、それ以降は永冨先生のところに通うことになったので、それで池内先生の手を離れたわけですね。
池ノ上の永冨先生のスタジオというのは、3畳1間ぐらいの、グランドピアノの他にイスが2つ並べられる程度の部屋なんですが、藝大の作曲科に入ろうとしている受験生、ほとんどが2浪、3浪している浪人生でしたけど、そういう人や、藝大の大学院の先輩達なんかがそこに集まってレッスンを受けているんです。3畳の狭いレッスン室ではあるんですけど、作曲家の卵がいつも複数でレッスンに参加していて、とても熱気がありましたね。
その周りの先輩達のフーガやソナタの作品のレッスンを横で覗きながら、自分は和声のレッスンを見てもらっていたんですね。
永冨先生のところに行って何をしたかといえば、教科書の第3巻を最初からレッスンしてくれたわけですよ。ですから池内先生のところでの課題に比べれば、若干の余裕も生まれたので藝大を受ける先輩達のレッスンにも関心を持つことが出来たんですね。
今考えると、この頃からなんですよね、和声とかを真面目にちゃんと勉強するようになったの(笑)。それで結果的に受験にもまあ間に合って、おかげさまで藝大付属高校に合格することが出来ました。
入学式の時、ふと見ると池内先生が学部長ということで前の方の席に座っていらっしゃったんですね。それで式が終わった後、池内先生に
「おかげさまで合格しました」
と報告に行ったら、
「俺はもう学部長で偉いから、君達学生とは付き合わねえんだ」
なんて言われました(笑)。
第5回 我が師の恩(1)
我が師 池野 成先生 小倉 啓介 インタビュー