第6回
我が師の恩(2)
池野先生からは折に触れて、例えばドビュッシーの時代はこうだったとか作曲家のエピソードといった形で、音楽史の流れみたいなものを随分話していただいたな、と思うんですよ。
でも、よく考えてみたら、そういうことっていうのは学校に行っても教えてくれないんですよね。本当だったら自分で本を読んで勉強することなんだと後から気が付いて。
あと、作曲にはもちろん作曲の技術というものがあるわけですけど、池野先生がよくおっしゃっていたのが、その技術というのは例えば演奏家やさらには一般の職業・職人さんのように、人のため、世の中の役に立つような目に見えるような技術ではない、ということですね。それは物書き一般にいえることですけど、だからこそ物を書く人間はせめて教養くらいは無くてはいけないんだということで、「教養は大切だ」ということを随分おっしゃっていましたね。
だから無教養にベートーベンとブラームスを比較しちゃいけないんだと。その作曲家の生まれた環境と時代背景の影響を全部受けて、その中で最先端のことをやって創られたのが作品であって、そのことを考慮しない限りは、結局は個人の好き嫌いで決まる間違った価値判断になるんだということですね。
そういう話を大分してくださったんですど、まあ普通、中学生でそんな見方はしないじゃないですか(笑)。
こっちはもろに自分の好き嫌いで曲を漁っているような時ですから。だからそれを最初に聞いた時にはちょっと驚きましたよね。
それでそんな話を池野先生からしょっちゅう聞いているものですから、そのうち私にも影響が出てきて、学校で同級生を相手にそういうことを喋ったんですよ。
そしたらみんなドン引きしてました(笑)。
それで何かの時に
「先生、学校で友達とか先輩にあの話をしたら、みんな引いちゃいましたよ」
と話したら、池野先生が
「それはそうでしょう」
と、
「中学生ぐらいでそういうことを言う人はまずいないでしょうね」
―――って、自分が教えたんでしょう!!
と思いました(笑)。
要するにロマンティシズムをどういうふうに捉えるかということをずっと言いたかったのだと思うのですよね。ヨーロッパのロマン派というのは、ただいわゆるロマンティシズムだけに流れた現代のロマン派とは違うのだと。だからこそちゃんと立派な作品を残していて、その価値観というのは現代とは全然違うものだということですね。
結局、現代の前衛の芸術家がやっていることというのは結局ロマン主義なんだ、というのが池野先生個人のお考えなわけですけど、そういう話を中学生の時からもう真っ向から浴びてたわけです(笑)。
まあ確かにそういうふうに考えられる一面も実際には有るなとは思いますね。
あと、私が今でも一番凄いことを教わったなと思うことがあって、それは、文化人の役割というのは結局文明を食い止めなきゃいけない、ということですね。
人間というのは文明が進んで行くと、どんどん楽な方へ流れて退化していって、同時に例えば核戦争のような方向にどんどん行きやすくなるのだけれど、そうなった時に教養の有る文化人がいることによって、今までの大戦でもそうであったように、相手の国を完全に滅ぼすということは人間同士であれば絶対にできないのだと。そこに文化の意味が出てくるということなんですね。
そうでなければ人間が完全に動物化して文明だけに走ったら、進化していない後進国というのはもうどんどん潰されてしまう。それが実際にできないのは、例えばナチスが、フランスを幾ら攻撃したとしても、フランスにはラヴェルがいた、ドビュッシーがいたと思えば、やっぱりそういうことはできないと。
やはり芸術家の役割というのはそういう部分に有るのじゃないのかという話は随分熱心にされていましたね。
文化・芸術の歴史の中での役割ということについて、如何にフランスやスペインなど歴史上の作曲家が人類史上教養のある立派な仕事をしたのか、ということを中学生の私にわかりやすく伝えたかったのだと思います。
そういうお話からは、政治や経済・その他の文明に貢献することは無く、逆に人間の尊厳、教養といったものを背負っているんだという、池野先生ご自身が作曲家としてやってこられたプライドをビリビリと感じました。
後から思えば、作曲という同じ道を歩む先輩として、人としては報われない暗い、寂しい人生を送った多くの作曲家の人生を語って下さる時にも、私自身が作曲家というあり方に幻滅、絶望することなく、池野先生ご自身を支えてこられた、人としての勇気、誇りといったものを交えて、力づけて下さっていたのだと思うんですよね。
その事は、あれから何十年も経った今でもとても感謝しています。
第7回 藝大付属高校と《Berdoa punja Selatan Pulau》