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ompany【 作曲家 池野 成 考 】



我が師 池野 成先生
小倉 啓介 インタビュー




第9回
伝説の浪人生
(1)





 入学試験を落とされてもちろん悔しかったんですけど、逆に「こんなところに誰が行くか」っていう気持ちの方が強くて、もうすっかり藝大に対して頭にきてたんです。
 受験が終わってしばらくすると付属高校の卒業式があるんですけど、私は藝大に落ちたことがわかっていながら、それには出席しなきゃいけないわけですよね。

 学校の行事なんかで五十音順に並ばされると、私は「小倉」で最初が「お」なのでいつも列の先頭なんです。
 前にお話したように、入学式の時は池内友次郎先生が学部長ということで目の前に座ってたんですけど、卒業式の時には学部長を石桁眞禮生先生がされていたので、私の正面に石桁先生が座ってらしたんですね。
 それで石桁先生にはなんの恨みも無いんですけど、こっちは藝大に落っこちて、なんだかムカついてるもんですから、式の間中、ずーっと石桁先生を睨み倒してたんです(笑)。

 そしたらね、卒業式が終わったある日、石桁先生から急に電話が掛かってきたんですよ(笑)。今から思うと付属高校の生徒だっていうんで電話番号わざわざ調べたんでしょうかね(笑)。それで何を言ってくるのかと思ったら

「一度、一緒に飯でも食いましょう」

っておっしゃるんですよね。どういう意味なのか、こっちとしては敵なんだか味方だかわからない状態で(笑)、とにかく御宅に伺ったんですよ。そしたら私が石桁先生を睨み倒してたこともちゃんと御存知だったんですけど、

「なかなか見所があると思いました」

と言われるんです。それから

「どういうかたちで受験に落ちたか詳しくは聞いてないけれども、一応、藝大に受かったという実績がないと君が損するんじゃないかなあ」

という話をされて、とにかくもう一度藝大をトライすべきだとおっしゃるんですね。しばらくしたら

「それじゃあ、ちょっと食事に行こう」

ということになって、御宅の近くにある新宿の「つな八」っていう天ぷら屋さんに連れて行ってくださったんですよ。そこで石桁先生は軽くお酒を召し上がられたもんだから、帰りがけにはもう御機嫌になっちゃいまして、新宿駅の改札の中にある売店で

「君のお母さんにお土産を買ってあげよう」

って言い出して、漬物とか色々なものをこんなに持たせてくれたんですよ。こっちはもうなんだかよくわかんないけど「どうもありがとうございました」と言って別れたんです(笑)。

 石桁先生と一緒にお食事したのは後にも先にもこの時だけでしたけど、後から思えばおそらく私を慰めてやろうというお気持ちだったんじゃないかと思うんですよね。



 そして浪人生活が始まったんですけど、勉強としては前にもお話した池ノ上にある永冨正之先生のスタジオと「ゆかり文化幼稚園」へソルフェージュ等のレッスンに通ってました。あと、付属高校時代の同級生達はみんな藝大生になっているので、彼らの助けをかりて、浪人の身でありながらチョコチョコと大学に潜り込んで、学生オーケストラの授業などをスコア片手に聴講生のような顔して聞いたりもしてました(笑)。
 残りの時間は、何しろもう高校に行かなくていいわけですから、頻繁に池野先生のところへ行ってましたね。

 それから、運動不足解消を考えて高校の頃から空手をやってたんですが、浪人生になって時間があるので渋谷にある道場に正式に入門しました。道場まで山手線に乗って行くんですけど、帰りには電車で立っていられないほど疲れ果てて、家でシャワーを浴びると体中が痣だらけなんて事もしょっちゅうでした。自宅裏の雑木林の木の幹に、そこかしこと巻き藁を巻き付けて、真っ昼間から空手着を着て稽古してましたね(笑)。



 浪人生活の最初の頃で一番大きかった出来事というのが、松村禎三先生の御宅に伺ったことなんですよね。

 高校時代に池野先生から紹介してもらって、松村先生とはすでに面識があったんですよ。たまたま何かの演奏会でお会いして「藝大落ちましたよ」という話をしたら、松村先生に

「とにかく君の藝大の落ち方が面白いから、一度家に遊びに来なさい」

と言われて、それじゃあ行きますということで御宅に伺ったんですね。

 その頃の松村先生の御宅には低い塀で囲まれた広い庭があったんですけど、行ってみたらその塀にこんなでかい犬が身を乗り出してて(笑)、よく見たらセントバーナードなんですよね。呼び鈴を押して「どうぞ」って言われるんだけど、その犬が恐くて玄関までいけないわけですよ。それでどうしようかなと思って、ふと見たら塀がずーっと続いていてダイニングルームの窓の近くまでいくんですね。それで塀の上に乗っかって(笑)、塀伝いにダイニングルームまで行ってみたらガラス越しに人の動く気配がしたんで窓をノックしたんですよ。そしたら

「こんな所から来た奴は初めてだ」

って言われて(笑)、そこから中に入れてもらいました。
 春だったんですけど、まだ寒くて部屋の中でストーブを焚かれていて、それを囲んで一対一でずーっとお話したことをよく覚えてますね。

 その後、何回か松村先生の御宅に伺ったんですけど、その頃の心境としては、とにかくああいう入学試験の落ち方をしたんで、もう藝大には受からないだろうと思ってましたし、それ以前に藝大に行きたいという気がしなかったんですね。
 ところが、当時松村先生は藝大の教授をされていたんですけど、いろいろお話する中で、

「君のやりたいことが藝大で出来るように僕が君の担任をするから、今年また受けなさい」

とおっしゃっていただいて―――まあ裏を返せば「他の先生は誰もおまえを取らないだろう」ということだと思うんですけど(笑)。

 あと、実は最初の受験の面接で険悪な雰囲気になった藝大作曲科主任のY先生が、その面接試験の一ヶ月後に急に亡くなられたんですよ。ですから、Y先生には大変失礼なんですけど、私みたいな生徒を毛嫌いする流れが収まって、こりゃ場合によっては藝大受かるかもしれないなあ、と思ったんですよね。
 
 そういうことが色々とあって、だんだん心の中に「もう一回藝大を受けてみようか」という選択肢が出てきたんです。



 それから、松村先生の御宅ではA君というとても才能のある友人と出会いました。
 A君というのは、私から見るととてもナイーブで感性がものすごく鋭い男なんですけど、もともとピアノ科で、不幸なことにある時、手の腱が切れてしまってピアノが弾けなくなってしまったんですね。それなら作曲を勉強したいということで、たまたま住んでるところが近くだったということで、しょっちゅう松村先生のところに相談に来てたらしいんですよ。それでA君が松村先生のところに来た時にちょうど私も居て、

「こいつこれから藝大受験するために宍戸睦郎さんのところにレッスンに出すんだ。友達になってやってくれ」

って松村先生からA君を紹介されたんです。それから割と気が合っちゃいましてね。いつも一緒に演奏会や美術館へ行ったり、本を読んでは意見をしあったり、時には喫茶店で何についてか忘れましたが意見が分かれて「表に出ろ!」というような喧嘩になったこともありましたけど、それ以来今日に至るまで付き合いがあるんですよ。そういう音楽面、思想面などで多大に刺激を受ける友人に出会えたということも浪人中の大きな出来事の一つでしたね。



 あと、浪人中、伊福部昭先生に何度かお目にかかっているんですよね。

 私がまだ付属高校に在学中の1974年に伊福部先生が東京音楽大学作曲科の教授になられて、池野先生も東京音大へ非常勤講師として作曲を教えに行かれるようになったんです。
 
 それでまた私が浪人中しょっちゅう東京音大の購買部に五線紙を買いに行ってたんですよ。そこの購買部にある30段の五線紙がとても使いやすくて、度々行くもんですから、店のおばちゃんともすっかり仲良くなって(笑)。そういうこともあって、池野先生と一度東京音大で待ち合わせしようということがあったんです。

 池野先生のクラスがちょうど終わる頃に学校に来てくださいと言われて、その頃に教室に行ったんですけど、まだ池野先生が生徒さんのレッスンをしていたんですね。レッスンが終わると池野先生が「もういいよ」と合図してくれて、教室に入って池野先生が帰り支度をするのを待っていたんです。そうしたら池野先生が

「この時間だったら伊福部先生がいらっしゃるから、一緒に誘ってみましょう」

とおっしゃったんですよ。それで伊福部先生のクラスに行ってみたら、まだ伊福部先生がレッスンをされていて、今度は池野先生と私の二人で伊福部先生の横で待たせてもらって(笑)。それから池野先生に伊福部先生を紹介していただいて、一緒に池袋の喫茶店にお茶を飲みに行ったんです。

 喫茶店では伊福部先生が私の目の前に座られて、しばらくしたらコートからパイプを取り出して、葉っぱを詰め始めたんですよね。それで吸ってらっしゃったんですけど、私はそれまでパイプを吸う人をまったく見たことがなかったもんですから、その一連の動作がもう珍しくて珍しくて伊福部先生の一挙手一投足をずーっと見てました(笑)。その後、私も完全に影響を受けて、早速パイプを買って真似して吸いましたよ(笑)。池野先生もパイプを吸われたらしいんですけど、私は吸っているところを見たことがなかったんですね。

 それで伊福部先生と色々お話させていただいたんですけど、私の5台ピアノの卒業作品のことも御存じでいらっしゃって、それから

「作曲家ではどういう人が好きですか」

と訊かれたんですね。それで

「もうとにかくストラヴィンスキーとラヴェルです!」

とパッと答えたら

「あー、あの二人が出て来ちゃったら、もう先が無いですね」

って伊福部先生に言われて(笑)。そのことをよく覚えてますね(笑)。要するにオーケストレーションではこの二人が最高峰だという意味だったんだと思うんですけど。

 その後も東京音大で買った五線紙を丸めて持って歩いてたら、偶然伊福部先生にお会いして、これからタクシーで帰られると言われるんで玄関でお見送りしたなんてこともありました。

 
 浪人中はこんなふうにいろんな作曲家の先生方とお会いする機会が多かったですね。









第10回 伝説の浪人生(2)



我が師 池野 成先生 小倉 啓介 インタビュー



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