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桜色のやさしさ



 昭和20年、東京大空襲で焼け出された私の父は、長男として、家族と共に逗子に移り住んだ。当時父は松竹大船撮影所の役者だったので、近くのその地を選んだのだろう。そこへ松竹の女優だった私の母が嫁いできて、私が生まれた。当時同居していた家族は、寄席で漫談を語っていた祖父。新米脚本家の叔父と、作曲家を志す叔父。そして洋裁学校に通う叔母。一風変わった面々をしっかり者の祖母が束ねていた。更に居心地が良かったのか、我が家には父や叔父達の友人が常に数人寝泊まりしていた。毎晩茶の間で繰り返される酒盛りと演劇談義。赤ん坊の私はその酒の匂いと煙草の煙の中で育った。小杉太一郎と言う人もその中の一人だった。彼の父、名優であった小杉勇氏は父の役者としての師で、ひとり息子の彼は、作曲を志す叔父を、師である伊福部昭氏に紹介してくれたのだ。ほとんどお酒を飲まない彼は、いつも目元をほんのり桜色に染めて、酔って大声で話しまくる仲間の話を楽しそうに微笑みながら聞いていた。
 やがていくつもの季節が過ぎて、みんなのマドンナだった叔母は、小杉太一郎という男性を伴侶に選んだ。それから彼は私の「太一郎おじちゃん」になった。
 昭和29年、東京に移り住んだ我が家と、「太一郎おじちゃん」の家は二駅ほどの距離。三人の子ども達に恵まれ、仕事に恵まれ、楽しい趣味の仲間に恵まれて、小杉家は順風満帆。その幸せの中に「太一郎おじちゃん」は、いつもさり気なく、私を誘い入れてくれた。
 私が成人してからの一時期、事情で我が家は母と祖母と私、女三人だけの暮らしとなったことがある。夕食が終わったころ、「太一郎おじちゃん」は時々ひょっこり一人で現れて、あり合わせの茶菓子と渋茶で、何気ないおしゃべりを心から楽しんでくれた。「もう遅いから、帰ってきなさいよ」と叔母が電話してくることも何度かあった。姑の家を娘ぬきで訪ねてくれる娘婿は、そうはいないだろう。祖母はどんなに嬉しかったことか。結婚して私はあらためて彼のやさしさが身にしみて分かった。
 今までの人生の中で私は「やさしい人」にたくさん出会ってきた。でもその中で一番はと聞かれたら、小杉太一郎という人を思い出す。彼らしいやさしさで、石巻への思いを表した渾身の作品「カンタータ大いなる故郷石巻」。この作品で被災地の復興に協力できることを、彼がどれほど喜んでいるだろうかと思うと、胸が震える。


山内 明 長女
山内 美郷





カンタータ石巻義援金プロジェクト



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