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「TBS賞からザ・ガードマンへ〜作曲家山内正誕生物語〜」


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《クライスラーの溜息》


 昭和36年春、山内正は、33歳だった。卯建(うだつ)があがらなかった。売れない作曲家である。6歳上の長兄山内明家に寄宿していた。世田谷 羽根木の西洋館。とんがり屋根の灑落(しゃらく)なたたずまい。明は、戦中からの美男俳優であった。人気があった。昭和25年には、劇団民藝を創立し、斯界での実力も兼ね備えていた。次兄の久は、昭和32年の映画「幕末太陽傳」の脚本などで知られていた。寡黙な弟は、気持ちが拗(ねじ)けていた。音楽で身を立てると心に定めてから20年近くが経過している。青雲の志は、フリッツ・クライスラーだった。父山野一郎は、戦前、無声映画時代の活弁士だった。売れっ子だった。自宅にSPレコードが堆くあった。蓄音機は、少年の耳に夢の調べを奏で続けた。中でも、フリッツ・クライスラー(1875−1962)だった。この音楽家の名前は、ヴァイオリンの代名詞だった。ロマンスと甘やかさと抒情味が化体(かたい)した無上の何かであった。極上で純粋な甘味は、安っぽくも感傷的でもない。正少年にとって胸焦がれる真の芸術であった。父の薦めもあった。音楽の藝術家になろう。ヴァイオリンに尽瘁(じんすい)した。近寄り難く精励した。凄絶な猛練習だった。しかし、不運が待っていた。戦局傾き、勤労動員の日々。少年の成長期の指は、猛練習と工場労働の痛苦によって悲鳴を上げた。左手の指が動かない。抑えることすらできない。クライスラーの上品なヴィブラートの夢は、消滅した。どんな治療をしても治らなかった。時は、経ち、敗戦を過ぎ、カレンダーは次々に捲られた。あちこちで槌音が聞こえてきた。しかし、ヴィオロンは、ヴェルレーヌの詩の如く節ながき啜り泣きと溜息であり続けた。


《吹きまくれ、逆風(さかかぜ)よ》


 ヴィオロンのもの憂きかなしみに
 わがこころ傷つくる

 かのヴェルレーヌは、そう書いた。秋の歌である。戦後しばらく、山内正は、ヴァイオリニストの夢を失ったままだった。傷ついたこころ。山内正は、10年近くを悶々と過ごしていた。昭和29年(1954年)秋、正の妹幸子が作曲家小杉太一郎(1927-1976)と結婚した。正と小杉太一郎は、共に27歳の同い年であった。小杉は、東京芸大の作曲科で伊福部昭門下にあった。大学4年の時に第21回の毎日音楽コンクールで作曲部門の一位に輝いた。華々しく楽壇にデビューした若き俊才であった。彼我の境遇があまりに異なった。小杉は、義兄となった正を当時、世田谷区尾山台にあった伊福部昭邸にしばしば連れて行った。妻となった幸子は、兄を案じていた。正月ともなると伊福部家には、門下生が集まった。音楽青年たちは、終夜(よもすがら)徳利を傾け、大いに語りあった。当時、中学生だった伊福部玲さん(伊福部昭長女)は、一晩中、燗をし続けた。山内正の印象をこう語る。
「おだやかで、もの静かで、ご自分の意見はいわず他の人の話を黙って聞いていた。」と。
 無理も無い。己はなんの実績もない。小さくしている他は無かった。伊福部昭は、藝大教師を退職した後、「ゴジラ」を作曲し、生涯唯一の交響曲「シンフォニア・タプカーラ」を書き下ろした。初演を成功させ、土俗的な感性による日本音楽の巨匠として輝いていた。オーケストラでは、東京交響楽団が意欲的に日本人作曲家の新作を月一回のペースで取り上げていた。同楽団を専属としていたラジオ東京(当時、後のTBS)は、その新作をコンサート・ホールというシンフォニー番組で毎月の第二日曜日に放送していた。「三人の会」や「山羊の会」など多様な音楽集団の動きが活発だった。昭和32年(1957年)、武満徹は、東京交響楽団の委嘱で「弦楽のためのレクイエム」を世に問うた。ほどなくストラヴィンスキーをはじめ世界を驚愕させることになる。日本のクラシック音楽界は、蠢動していた。脈動弾けんばかりであった。そんな時代が山内正を痛烈に刺激した。義弟を介し、伊福部昭の薫陶を受けた。思量すれば、クライスラーも後年、作曲家であった。彼には、音楽そのものを放擲した時代すらあった。医学と美術に進み、軍籍に入った数年があった。しかし、その廻り道の時間が後にクライスラーの温かみと円熟の音楽に作用した。そう謂う事もできるのではないか。正の裡中(りちゅう)、猛烈な情熱が舞い戻った。強い心が甦った。ヴェルレーヌは、歌ったではないか。吹きまくれ、逆風(さかかぜ)よと。山内正は、作曲の道に邁進した。




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CD「山内正の純音楽」制作関連情報


作曲家 山内正 研究活動




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