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ompany池野成 没後10年 Salida企画



沢田完
インタビュー




第2回
音楽大学へ




―――そして高校へ入られてからも音楽は続けられたのですか。

 はい。引き続き吹奏楽部に所属しまして、先にお話したN響の北村先生に師事してトランペットを吹いていました。
 吹奏楽部では色んな曲を取り上げたんですけど、その中で『ウエストサイド・ストーリー』のプロローグやマンボを演奏したことがあって、その曲がもの凄く好きになっちゃったんです。もともと映画の『ウエストサイド・ストーリー』を見た時から素晴らしい音楽だと思っていたんですけど、それを作曲したレナード・バーンスタインという人が、実は指揮者で今も現役で活躍しているということを、ある時聞いてビックリしたんですよね。クラシックはたくさん聴いていたんですけど、当時そういうことにはあまり明るくなくて(笑)。それでしかもカラヤンと並んで二大指揮者のようなことを言われていると知って、指揮者で作曲家なんて凄いなあと驚いたんです。


―――バーンスタインのことはその後も意識されたのですか。

 ええ。それでまたちょうどその頃にバーンスタインが東京公演をやるということで日本に来たんですよ。僕が高校2年生の時だったんですけど、もちろん聴きにNHKホールまで行きました。
 その時にバーンスタインがイスラエル・フィルを指揮して演奏したのが、まさにあの『ウエストサイド・ストーリー』の音楽で構成された《シンフォニック・ダンス》とブラームスの《交響曲第1番》だったんです。もう感動しましてね、すでにバーンスタインはお爺さんだったんですけど、指揮台の上で自分が作曲した作品を指揮しているその姿を観て、こんな凄い事があるのだろうかと。それを生で観た感動というのは未だに忘れられないですね。「これぞ男のやる仕事!」って思っちゃいました(笑)。
 その時から「自分の作品を指揮するようなオーケストラの作曲家になりたい」という気持ちにかなりシフトしましたね。
 ですから僕にとってバーンスタインは、とても大きい存在なんです。


―――バーンスタインとの出会いが「作曲家になりたい」と思われる決め手だったんですね。

 そうですね。高校2年生の時にはっきりとそう意識したわけですけど、でもそんな大それた事を言ったら、周りから絶対バカにされると思ったんです。だから恥ずかしくて、すぐにそのことを言い出せなかったんですよね。結局、周囲に何も言わずに我慢して我慢して、ずっと耐えて1年間トランペットを吹いていました。
 ただ、ソルフェージュは高校1年生の時から習っていたんですね。というのも姉が音楽大学に本気で入ろうとしていたので、当然ソルフェージュを勉強していて、僕はというとまったく趣味の延長で、聴音や譜面に強いに越したことはないということで、作曲家の遠藤雅夫先生という方がいらっしゃるんですけど、そちらへ姉と一緒に習いに行っていたんです。それは高校3年間続きましたね。

沢田完&出口寛泰

沢田小太郎くん
取材には愛猫 小太郎くんも同席。



―――作曲家を目指していることを周囲に打ち明けられたのはいつ頃なんですか。

 本当に遅いんですけど(笑)。高校3年生の、しかも終わる頃に「作曲家になりたいんですけど」みたいなことを親と遠藤先生に言ったんですよ。
 そしたら、作曲家に向いてるとも思えないし、何の勉強もしてない人が、なんでそんなのになりたいと思うの?ってもう大笑いされたんです。まあそれは当然そうなるんですが、最終的には遠藤先生が半ば飽きれ顔で
「…じゃあ、この『和声』の教科書の問題を解いて来なさい。どうせ君はこれで音を上げるから」
と教科書の第一巻を渡されたんですよね。


―――教科書の問題は手こずりましたか。

 いえいえ、これが全然楽しくて、そのままずっと和声のレッスンが継続しちゃったんですよ。それから2、3カ月してようやく遠藤先生から

「すぐにレッスン止めると思ったけど、意外と続いてるみたいだから、取り合えず頑張って東京音楽大学を目指してやってみたら」

 と言っていただけたんです。
 遠藤先生は東京音楽大学で作曲を教えていらっしゃったので、この大学を薦めてくださったんだと思います。実家からもさほど遠くないところにありましたし、母が東京音楽大学の前身の東洋音楽短期大学を卒業していまして、割りといろいろ縁がある学校なんですよね。
 それで遠藤先生が引き続き受験のための和声と対位法も教えてくださることになったので、先生の御自宅に通って1年間浪人しました。


―――浪人生活はやはり大変でしたか。

 浪人というと一般的には辛いイメージがあるんですけど、僕の場合は寧ろやっと人生が楽しくなりました。ようやく自分のやりたいことが出来ると思って。
 「作曲家になりたい」とさえ言えなかった1年間があったり、今まで憧れて憧れて曲を聴いていたのが、もしかしたらこれで作曲が自分の仕事になるかも知れないというような第一歩だったので、精神的には非常に充実した、もの凄くハッピーな浪人生活だった記憶がありますね。


―――浪人中、一緒に勉強するお仲間はいらっしゃったんですか。

 今、劇伴でもの凄く売れっ子の佐藤直紀君っていう作曲家がいますけど、実は彼がその時の同期なんですよ。僕が浪人していた時に、もう一人遠藤先生のところへ習いに来ていた生徒がいて、それが佐藤直紀君だったんです。彼は僕より学年が一つ下なんですけど、高1ぐらいの頃からもう勉強を始めていて、高校3年生の現役で東京音大を目指していたんですね。
 今でもスタジオで時々会いますけど、二人で一緒に毎週土曜日、遠藤先生のところへ習いに行っていた頃を思い出すと、ほんとに不思議な感じですよ。


―――浪人の末、結果はいかがでしたか。

 僕と直紀君、二人とも東京音大に合格しました。
 ちょうど我々が入学した年から「作曲科 : 映画放送コース」というコースができたんですけど、直紀君はその第一期生になって、僕は昔からある「作曲科 : 芸術コース」に入りました。クラスはそれまでお世話になっている遠藤先生のところへと自然に決まりましたね。


―――そしていよいよ池野成先生に出会われるのですね。

 授業の中で「管弦楽法」という科目がありまして、それを担当していたのが池野成先生だったんです。そこで初めて池野先生にお目に掛かりました。

 実は僕が「池野成」という名前を知ったのは、この時よりもずっと前のことなんですよ。兄貴が美術で東京藝術大学に行っていたこともあって、高校3年生の時に「藝祭」に遊びに行ったんですね。その時に「第6ホール」という藝大にある大きなホールで作品発表会をやっていたんです。その中で池野成 作曲《EVOCATION》を初めて聴きました。
 その演奏会のプログラムには、作曲者の名前と作品名しか書いていなかったので、作曲者の池野成さんは、てっきり藝大の学生だと思ってたんです。すごく才能のある学生だと思いました。


―――《EVOCATION》はどうお感じになりましたか。

 もうビックリしました。こんなセンスの良い曲を書く人が邦人でいるんだと思って嬉しくなりましたよ。それまで渋い暗い現代曲ばかり聴かされていた中で《EVOCATION》はとびきり音楽的に素晴らしいと思いました。

 池野成さんが東京音大の先生と知ったのが二度目のビックリでした。




沢田完氏 with CD「小杉太一郎の純音楽」
CD「小杉太一郎の純音楽」と共に。
劇伴等の作曲で多忙を極めるも、純音楽作品の創作に気概を持ち取り組む沢田氏は、
かつての日本映画全盛期における師 池野成やその親友 小杉太一郎を彷彿とさせる。









第3回につづく。


池野成 没後10年 Salida企画


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