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『九尾の狐と飛丸』リクエスト上映記念インタビュー


清水浩之 氏 インタビュー

with 清水浩之氏

清水浩之 氏 略歴



 2010年、主催される「短篇映画研究会」で『九尾の狐と飛丸』を取り上げ、今回再び2016年7月24日(日)・25日(月)にリクエスト上映を行われる清水浩之氏にドキュメンタリー映画との出会い、「短篇映画研究会」をはじめられた経緯、そして『九尾の狐と飛丸』について等々の貴重なお話をうかがいました。

【CD「小杉太一郎の純音楽」報道記事】


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―――そもそも清水さんとドキュメンタリー映画の出会いはどのようなものだったのでしょうか。


 大学を出てすぐにCMとかPRビデオなどの映像をつくる会社で働いていたんですね。

 当時、京橋のフィルムセンターの近くにあった「映画美学校」、今は渋谷のユーロスペースの下にある学校なんですけど、そこが『阿賀に生きる』などのドキュメンタリー映画をつくられた佐藤真さんを講師に招いて週一回のドキュメンタリーのコースをつくるということを映画館に置いてあったチラシでたまたま知ったんですね。1999年のことです。それまで僕自身、昔のドキュメンタリー映画を観る機会はあまり無かったんですけど、まあ週一回だったらちょっと部活のつもりで行こうかなと。それで行ってみたらこれがおもしろかったんですね。

 そのうちにそこでつくった私の短い作品が、なぜか2002年の「ゆふいん文化・記録映画祭」で上映されるという話になりまして、まだまだドキュメンタリーを知らない状態だったんですけど、とにかく湯布院に行きました。そこで湯布院の方々やその他映画関係者のみなさんと知り合いになったんですけど、その中で来年2003年の上映作品を探すのを手伝ってほしい、つまり湯布院から作品を探しに東京へ何回も来てたら飛行機代が掛かってしょうがないので、東京にいる人に手伝ってほしい、というお話をいただきましてお引き受けしたんですね。「ゆふいん文化・記録映画祭」は毎年6月の下旬に開催されるんですけど、そういうお手伝いを2011年までやっていました。

 その他に2007年の山形国際ドキュメンタリー映画祭での特集上映「ドラマティック・サイエンス!やまがた科学劇場」などにも携わりました。

 現在はフリーになりまして、テレビ番組をつくる仕事をしています。



―――「ゆふいん文化・記録映画祭」に携わられていた同時期の2003年には東京国立近代美術館フィルムセンターで特集上映「短篇映像メディアに見る現代日本」が開催されています。


 2000年の初め頃からドキュメンタリー映画の捉え方というものがガラッと変わったと思うんですね。世の中がだんだんドキュメンタリー映画っておもしろいなと気づきはじめたというか。

 それはドキュメンタリー映画を制作する側にとっても、たとえば家庭用のデジタルビデオが発売されるとか、パソコンを使って家で編集作業が出来るようになるということが、ちょうど2000年代以降からだんだん出てきたと思うんです。ドキュメンタリー映画が非常につくりやすくなったというところから、つくる人もどんどん増えたし、観る側も観やすくなった。

 それによって今までのドキュメンタリーというかなり限定されたジャンルが徐々に広がって、さらにいえば今までドキュメンタリーとは見做されなかったもの、いわゆる科学映画とかPR映画などの短編映画もそうですし、テレビでいうとバラエティなどもある意味これはドキュメンタリーなんじゃないかとみんなが意識や捉え方を変えていった。
 そうすると過去の作品にも接する機会が増えて、科学映画をはじめとする今までは堅苦しい内容なんじゃないかと思われていたものが意外にそうでもないんだなと親しみを持てるようになったというのが大きいと思いますね。

 そもそも「ゆふいん文化・記録映画祭」をはじめられたのは、中谷健太郎さんという有名な旅館のご主人なんですけど、中谷健太郎さんは雪の結晶の研究で知られる中谷宇吉郎の甥にあたる方なんですね。中谷宇吉郎は『霜の花』などの科学映画もいくつか手がけているんです。ですから中谷健太郎さんは前々から科学映画というものを知っていて、あれはおもしろいんや!という思いがあって映画祭をはじめられたという経緯があるんですね。

 僕自身も映画祭関係者の方々とお付き合いをさせていただくうちに「科学映画っておもしろいなぁ」と感じるようになって、日本の戦前だと「十字屋」っていう銀座の楽器屋さんが科学映画をつくって学校に配給していたり、それから戦後になると中谷宇吉郎が岩波書店に働きかけて「岩波映画」をつくったり、岡田桑三の「東京シネマ」ができたり、あと東映が教育映画をつくったり、学研が映画部をつくったりという感じで、いわゆる教育映画のジャンルとPR映画のジャンルも加わってどんどん盛んになっていったという歴史的なこともわかっていきました。

 ドキュメンタリーの映画祭に携わる中で、たとえばフィルムセンターの研究員に岡田秀則さんという方がいらっしゃるんですけど、岡田さんはドキュメンタリーにすごく詳しい方で「そうなんですよ。科学映画ってこういうおもしろいものがあるんですよ。フランスにはこういうのがあって...」ですとか色々教えてくださるんですね。あと実際に大学で科学の研究をされている方が上映会に来られて、「こんなおもしろい科学映画があるんだということを初めて知りました」と連絡をくださる方もいて、繋がりもだんだん広がっていきました。



―――「短篇映像メディアに見る現代日本」でご覧になった『潤滑油』(1960年 演出:竹内信次 音楽:池野成)には大変大きなインパクトを受けられたそうですね。


 『潤滑油』は、映像と音楽が融合した未曽有のスペクタクル映画で本当にビックリしました。

 ドキュメンタリー映画は日本でももちろん昔から観られていて、たとえば教育映画だったら、この後の展開はこうなってああなってというある種典型的なパターンがあるんですよね。わりとそのパターンで覚えちゃっていることが多いんですけど、必ずしもそうではないんだということが『潤滑油』には特徴的に出てますよね。

 『潤滑油』という題名だけ聞いて、ああいう内容の映画だとは誰も想像しませんけど、最初に池野成さんの音楽が「ボヮーン」と入って、「東京シネマ作品」の文字が画面に出た瞬間に「あ、これはなんか思ってたのと全然違う作品だ」ってことがわかりますよね(笑)。これまでの昔のドキュメンタリー映画の概念に当てはまらないものがあったんだと。あれですね、ソヴィエトやロシアの映画に近い感じなんですよね。

 『潤滑油』は昭和35年の作品なんですけど、日本のPR映画は映像・内容的にも昭和30年代がやっぱり絶頂期なんだと思います。
 それはいわゆる経済成長が進んで、たとえば企業、『潤滑油』は丸善石油ですけど、会社にお金があって、会社のPRが出来るようになった。その頃はまだテレビが白黒で、広告の媒体としてはまだそんなに主流になっていない頃なので、それじゃあ映画をつくって宣伝をしよう、ということになる。それで映画をつくって、さらに日本語版、英語版をつくって海外にも持っていって、海外での商談中にその映画を観せれば、いわゆるPRのツールとして有効だという時代なんですね。そういう意味でも昭和30年代がPR映画にとって時代的にも黄金期だったんだと思います。それ以降はやっぱりテレビに軸足が移っていきますから。

 その黄金期の代表的なというか究極の科学映画が『潤滑油』などの作品なんですよね。

 「油」が主役の映画をオールカラーでお金と時間をかけて、あそこまでの情熱でつくる。完成に一、二年は掛かってますよね。
 しかも企業のPRのためにつくる映画ではあるんだけれど、何か特定の商品の名前が出てくるわけでもなく「あんまり自分のところの商品のことを言わなくていいですよ」みたいな大らかさがあって、観る側にしても「あぁなるほど、こういう意義のある映画をつくって良い会社だなぁ」と思う、そういう大らかな時代があったわけですよね。



―――『潤滑油』のような短編映画はどのような機会に上映されたのでしょうか。


 企業がPR映画をなぜつくるのかというと、今もそうなんですけど株主総会とか商談の時に「うちの会社はこういう会社ですよ」ということを紹介するためにつくるのが第一目的なんですね。それと同時にフィルムをたとえば図書館のようなライブラリーに寄贈してそれを活用してもらう。
 ですから本来は劇映画のように収入を得るためにたくさんの人に見てもらうということは、あまり目的ではなかったんだと思うんですけど、だんだんこういう短編映画っていうのはおもしろいんだな、こういう映画でみんながうちの会社を知る機会になるんだなとなってきて、お金もかけるし、映画が完成したらフィルムを各地に送って観てもらうようにしよう、となったのがやっぱり昭和30年代なんですね。

 今から考えるとあんまり効率的ではないかもしれないんですけど、ようするにその頃はまだテレビが普及していなかったということがあって、そういうかたちで映像を使っていくのが、わりと一番の近道だったのかと。各地にライブラリーがあって、そこにフィルムを置いておくと公民館とかでの勉強会の時にフィルムが借り出されて上映される、ちょうど今のDVDのようにフィルムが使われていた時代なんですよね。 



―――池野成先生のことを意識されるようになったのは『潤滑油』をご覧になってからですか。


 そうですね。それまでは音楽が池野さんだってことをとくに意識はしていなかったんですけど、『潤滑油』の音楽にビックリして思い出してみると「あっ、この映画も音楽が池野さんだ、あれもそうだ」と。僕が大好きな『海に築く製鉄所』(1959年 岩波映画 監督:伊勢長之助)、『その場所に女ありて』(1962年 東宝 監督:鈴木英夫)、『挑戦』(1963年 大阪電通・電通映画社 監督:渋谷昶子)、『たまごからヒトへ』(1976年 シネ・サイエンス(アイカム) 演出:武田純一郎)などの音楽は池野さんが作曲されていたことに後からどんどん気がつきましたね。
 僕は音楽があまり詳しくなくて、専門的なことはよくわからないんですけど、でも池野さんの音楽は、とくに昭和30年代のものはなんかおもしろいですよね。こういう音楽があるんだ!この映画にこういう音楽を付けるのか!というようにものすごくおもしろい。

 そもそも昭和30年代のドキュメンタリー映画にはいわゆる現代音楽の作曲家の方々が参加されていて、たとえば一柳慧さんや小杉武久さんですとか、この映画にこの作曲家?!という今からみると意外な方が音楽を担当している驚きやおもしろさがあるんですよね。



清水浩之 氏 インタビュー (1)/(2)





『九尾の狐と飛丸』2016年7月24日(日)・25日(月)上映。


作曲家 池野成 研究活動





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