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正はずいぶん無念だったろう

(2)



 だが、フリッツ・クライスラーに心酔した正が、俺もヴァイオリニストになると宣言した時には、流石のオヤヂも実は心痛した。食っていけるかどうかの問題である。相談を受けた旧友の前田環氏は
「器楽者は或る水準を抜く技術を身につければ、餓死するとは限らない」と慰めてくれたらしいが、ますます不安になったオヤヂは
「俺には全てのシンフォニイが風の音に聞こえる。つまり、同じものに聞こえる。画ならもう少し判るから助言もしてやれるし、こっちのほうが少しは食いやすいらしい。画描きになる気はないか」と翻意を促した。
 正は腹を立て
「シンフォニイが全部同じに聞こえるような耳は犬の耳だ。犬の耳のくせに音楽はどうのこうの云うのは許せない。」と喧嘩になった。オヤヂは諦めて鈴木ヴァイオリンの中位の楽器を買い与えた。それまでの彼の楽器は玩具同然のものだった。初めて楽器らしい楽器を手にした彼の練習ぶりは凄かった。連日8時間から休日には16時間の練習が続いた。その冬には太平洋戦爭が勃発する年である。学生、生徒の勤労動員が既に始っていた。工場から帰ればすぐ弓を掴む。夕食までの2時間、更に深夜2時頃までの7時間。殆んど口をきかなかった。冗談口をきいている暇はなかったし、その気もなかったろう。気晴らしも休養も彼の場合は全部が演奏、練習の中にあった。普通、器楽の演奏者を志す者は4才か5才で練習を開始するが、彼は既に15才だった。3年後には15年も鍛え上げてきた若者に伍して音楽学校の試験を受けなければならぬ。夏はランニング1枚の姿で顎にヴァイオリンを挟んだまま、額や脇の下の汗を拭いている姿。冬は弓を譜面台に置いて、かじかんだ手を煉炭火鉢にかざして揉んでいる姿。あとは演奏している時の引き緊った顔。リズムを工夫している時の怖いような顔。その時期の彼についてはそんなイメイジしか浮かんで来ない。深夜の練習は近所の迷惑になるからやめろと云う母の叱言を彼は堂々と無視した。叱言をくり返す母の声音は辛そうだった。当然である。深夜だからとか、空襲警報が出ているからとか云う理由で彼の練習を差止めては可哀そうだ、彼には好きなだけ練習する権利がある。そう思はせる程の切迫感が彼の練習ぶりにはあった。最も良識家である母が、思はずその良識を恥じずにはいられなくなるほどの突きつめた、そのくせ不思議に静かな迫力が彼の練習ぶり、毎日の生活ぶりに溢れていた。

 私はそういう弟を、未だ嘗て誰にも感じたことのない畏敬の念で瞶めていた。3年後に彼は上野に入れないかも知れない。 然し、10年か15年あとにはフーベルマンかヂンバリストのように弾きまくるに違いない。それは自明のことであると極く自然に思っていた。身びいきでも何でもない。練習と音楽会と読書。それだけしか彼の生活にはない。時々手を止めて想いに耽っている正の横顔には、軽々しく声をかけられないような緊張と気品があった。名演奏家《ビュルチオーゾ》と云うものはこうやって自己形成して行くのだなと納得させる型が、寸分無駄のない凄味のある生活のパターンが、16才の彼の日常の中に既に確立していたのである。




「正はずいぶん無念だったろう」(1)/(2)/(3)(4)(5)



作曲家 山内 正 研究活動

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