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正はずいぶん無念だったろう

(3)



 だが、想いもかけぬ不幸、と云うよりは当然な不幸が彼を襲った。──手が壊れた。妹の幸子と結婚し、後に我々とは義兄弟の関係になった小杉太一郎の家に遊びに行った時、太い松丸太が転がっていた。これを薪にする作業を手伝おうとして、鋸を引いた時、電気ショックのような激痛が左腕を走った。上膊部も下膊部もみるみる腫れ上り、薬指と小指が動かなくなった。提琴演奏家にとって致命の事故である。恐らくは累積した猛練習の疲労が神経を打砕いたのだろう。以後彼が死ぬまで、どんな治療を加えてもこの2本の指は2度と演奏に耐えるほどには回復しなかった。

 その事故の翌年、私は19才で徴兵され北支転戦中青島で敗戦を迎え、翌春虱(シラミ)と共に帰国する。幸い家族は無事だったが、彼の指は回復していなかった。

 2年後、私は外語を卒業して松竹の脚本部に入った。太一郎は上野の作曲科に在学中、「六つの管楽器の為のコンチェルト」が毎日コンクールの大賞を受け、新進作曲家として華々しく活躍し始める。それでも正の指は癒らなかった。時々怖い物に觸れるようにヴァイオリンを取り、そっと弓を当てるが、2分も弾かぬうちにケースにしまいこむ、その姿を見るのが辛かった。

 小さな幸運もあった。敗戦で軍楽隊が解散になり、楽器が売りに出された。銘ガルネリウスの名器が4千円だと云う。今の金で250万くらいだろう。大勲位公爵陸軍元帥元総理大臣と云う気の遠くなるような肩書を持った悪玉、桂太郎の甥で、これも元男爵の桂平太氏と云う人が中学以来の縁で正のヴァイオリンの師匠だった。我儘で諧謔好きで愉快な人だったが、その人の口ききでその銘ガルネリウスが買えることになった。だが肝心の4千円がない。当時そんな金が庶民の家に転がっている訳はない。それが買えた。明が撮影所へ行って借りてきた。正は満足した時の癖で、少し鼻の穴をふくらませながら早速そのヴァイオリンを顎に当てた。鳴らない。彼が中学時に弾きまくった初代のおんぼろスズキリウスより鳴らない。既に左掌全体の握力が回復すべくもなく落ちていたのだ。
 
 この頃から正は多弁になった。 私の学友や新しくできた映画界の友人が遊びに来ると、彼らの小ブルジョワ性、日和見性、芸術家としての不徹底性を口をきわめて罵倒した。一言云い返すと百倍になって戻ってきた。去年「復讐するは我にあり」の脚本でいろいろなシナリオ賞を独占した馬場当が「そう云う云い方こそ小ブルジョワ的ではないのか」と反撃した。正は蒼白になり、珍しく聞くに耐えぬ罵詈誹謗を連発した。




「正はずいぶん無念だったろう」(1)(2)/(3)/(4)(5)



作曲家 山内 正 研究活動

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