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正はずいぶん無念だったろう

(4)



 当然のことながら正は焦っていた。6年、7年にわたる甲斐のない療養。演奏家として立つ希望は99パーセント失われ、彼の渾身の情熱を傾け得る対象はほかには何もない。恐らく断崖絶壁に追い詰められた心境だったろう。太一郎が心配して、伊福部昭先生の門に誘ってくれた。太一郎は、上野の作曲科の講義を聞くだけでは何一つ作曲できなかった。それが伊福部先生のもとへ通い出してからは、もりもり意欲が湧き、曲が書けるようになった。実に素晴らしい芸術家であると同時に「魔法のような力を持った先生なんだよ」と、ユーモアもまじえて誘ってくれた。

 正は乗気ではなかった。渋々引かれて行く感じだった。だが、この場合は彼の性格的な特徴である徹底性がプラスに働いた。彼は一度で伊福部先生に傾倒した。そして生涯、毒舌家の彼としては極めて異例のことだったが、先生についてだけは深い敬愛をこめてしか語らなかった。青春の冒頭で大きな挫折にひしがれ、あまり恵まれたとは云えない彼の一生の中で、もし常人には望み得ぬ幸運があったとすれば、それは、これ程までに心服できる師にめぐり会えたこと、そして、親しくその薫陶を得た一事だろう。先生のもとに通い出してから3年目に、彼は「陽旋法に拠る交響曲」を書いた。そしてそれが、TBSの創立10周年記念コンクール、課題「日本」の第1回に入選した。

 今でも鮮やかに思い出す。まだ出来たての東京厚生年金会館ホール。3人の兄弟の友だちが殆んどみんな顔を見せてくれた。

 どんな曲なのか。いい曲であってくれればいい。いやせめてバカ音楽でなければいい。──上田仁氏の指揮棒一旋、その曲が流れた。涙が噴き出した。恩師ゆずりの、分厚い、真正面から人の心底に迫ってくる堂々たる音である。

 正は2階席の天頂の中央に1人離れて坐っていた。演奏が終り、みんながその周囲に集まった。みんな黙っていた。今までだって、みんなが正を愛していた。だが今は、新しくその愛の底に尊敬が加わっているのが判った。正はしきりに鼻水をすすっていた。そしてカラカラ笑っていた。あの日あの数刻が、彼の生涯で最も幸せな時だっただろう。伊福部先生は、勿論贔屓目もあるだろうが
「入選3作のうち嶄然最高である」
と賞めて下さった。長いトンネルを漸く抜け出た想いの彼にとって、恩師のその言葉は以後どれ程励ましになったことだろう。

 その師のもとへ正を導いてくれた優しい太一郎も数年前胃の宿痾に倒れて既に亡い。

 弟と義弟と、身近に2人も作曲家を持ったことを私はひそかに喜こび、誇にも思っていたのに、その2人が2人とも今や亡い。日本で作曲家として生きることの難しさは恐らく想像を絶するのだ。志操純潔であっただけに、不器用だったし、生活すること自体、彼には苦しみの多いことだったに違いない。満洲美さんと云う好伴侶を得て随分救われた筈だが、やはり『生活』は、並みの生活者よりは辛く、重かっただろう。だが、それを承知の上で、やはり私は云わない訳にはいかない。この数年、彼の勉強は足りなかった。
 勿論、世間並の勉強はしていただろう。だがその程度の勉強は、彼の青春期の猛訓練、あの鬼気迫る気魄と集中に較べたら零にひとしい。云うことに繰返しが増え、発展がなくなった。一緒に小旅行でもして徹底的に話し合おうか、そんな想いで激励の手紙を書いた。その直後の死だった。




「正はずいぶん無念だったろう」(1)(2)(3)/(4)/(5)



作曲家 山内 正 研究活動

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