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作曲家 田村 徹 インタビュー

作曲家 田村 徹

田村 徹 氏 略歴


【CD「小杉太一郎の純音楽」報道記事】


「田村 徹の歴程」  上野 晃(音楽評論家)

【CD「小杉太一郎の純音楽」報道記事】



 1964年、管弦楽作品《筑後地方の俗楽によるコンポジション》で第4回 TBS賞「日本を素材とする管弦楽曲」作曲募集〈特賞〉を受賞し、楽壇デビューを果たされた作曲家 田村徹氏。
 グスタフ・マーラーの直弟子であるクラウス・プリングスハイムをはじめ、渡邊浦人、安部幸明に師事された田村氏は、1967年より「作曲五人会」に参加、作曲家 山内正と共に活動されました。
 この度、CD「山内正の純音楽」制作を契機に福岡県久留米市にて田村氏の貴重なお話をうかがいしました。

【CD「小杉太一郎の純音楽」報道記事】


作曲家 田村 徹



―――音楽を志されたのはどのような経緯からだったのでしょうか。


 子どもの頃に母親がオルガンを買ってくれましてね、兄弟みんなで弾いてたんですよ。そのうちピアノも習うようになりまして、中学校1年生ぐらいの時にはなんとなく音楽のことを意識してましたから、母親の影響が強いと思いますね。

 それから高等学校に入って「将来何しようかな?」と考えた時に、人より出来るものっていったらピアノが弾けることだったんで、音楽の道に進むことにしました。
 でも僕はピアノをはじめたのが遅かったんで、今から勉強して出来るものはと考えて「まあ作曲なら」っていう軽い気持ちで(笑)。高校三年の時に思い立ちましてね。
 それで今の福岡教育大学、当時は福岡学芸大学という校名でしたけど、そこに森脇憲三という先生が赴任されて、その方に作曲の手ほどきを受けたんですよ。十ヶ月ぐらいでしたかね。その後、田舎にいても音楽大学なんてありませんから、とにかく東京に出て行ったんです。

 東京に来てみたら自薦他薦の天才達がいっぱいいるのにまず仰天するわけですよね。ああ、なんでこんなに教育格差があるんだろうと感じましてね。
 生活は苦しいし、いったいどうしたらいいんだろうと思って、とりあえずバンドマンをはじめたんです。夜キャバレーでピアノを弾く仕事をやったりして、なんとなくそれで2年ぐらいは面白おかしくやってたんですよね。

 でもこのままではいけないと思うようになって、バンド仲間の音大出のインテリに相談したら「田村さんね、どっか音大に行ったら」と言われて。それじゃあっていうんで、武蔵野音楽大学に行ったんです。



―――クラウス・プリングスハイムに師事されたのはこの頃ですか。


 ええ、それはね、武蔵野音楽大学に入ったら作曲の先生がプリングスハイムだったんですよ。だから大学入学時からずっとプリングスハイム先生に習っているわけです。

 プリングスハイムはグスタフ・マーラーの直弟子ですね。日本語はいっさいしゃべりません。すべてドイツ語で厳格な方でした。まあ、いろんな人生経験をされて最終的に日本に住まわれるようになったということも関係しているのか、ちょっと気難しい面もお持ちでしたね。



―――渡邊浦人さんに師事されたのは、どのような経緯からですか。


 渡邊浦人先生はね、僕の親父の遠戚なんですよ。ですから「作曲家になるんだったら、一度訪ねてみたら」って前から言われていたんです。それで大学入ってから尋ねてみたんだけど、そしたらそこで劇伴を仕込まれたわけですよ。

 渡邊先生は、戦前、学校の先生をしながら交響組曲《野人》等を書かれて、戦後になるとラジオ、テレビ、映画の音楽をたくさん担当されてました。それで内弟子みたいなかたちで住み込んでラジオの『赤胴鈴之助』シリーズの劇伴なんかのお手伝いをして。だから僕はそこでオーケストレーションの勉強をしたんですよね。
 でも、お手伝いに行ったのは大学生の時だけでしたね。渡邊先生は温和な方でしたよ。



―――安部幸明さんにも師事されていますね。


 安部幸明先生の娘さんがたまたま武蔵野音楽大学で同級生だったんですよ。
 とにかくこっちは田舎から上京してきて、音楽情報は何もわからない状態でしたから「連れてってよ」ってお願いしたんですよね。それで安部先生の作曲のレッスンに月1回通うようになったんです。
 安部先生はプリングスハイムの愛弟子ですよ。最初、東京音楽学校(現・東京藝術大学)のチェロ科に入るんですけど、研究科(現・大学院に相当)の時には作曲専攻に転じて平井康三郎さん達とプリングスハイム教授に習うわけですよね。
 安部先生は温和な方でしたけど、ちょっと皮肉をまじえた冗談等もありました(笑)。お付き合いは安部先生の最晩年までさせていただきました。

『作曲家との対話』(1982年 新日本出版社)安部幸明
『作曲家との対話』(1982年 新日本出版社)
田村氏は作曲家 安部幸明のききてを務められている。




―――そして作品をコンクールに応募されるわけですね。


 ええ、音楽大学を卒業したからって作曲家になれるわけじゃない。自称作曲家ではどこも相手にしませんからね。とにかくコンクールに作品を出して入賞するのが近道だと思って《筑後地方の俗楽によるコンポジション》(1964)という作品を「第4回TBS賞」に応募しました。そうしたところが幸いにも〈特賞〉をもらいまして。それでいわゆる楽壇デビューをしたわけです。
 翌年の1965年には《三重奏曲》が、第34回毎日音楽コンクール(現・日本音楽コンクール)作曲部門(室内楽曲)第3位で入賞しました。

第4回 TBS賞「日本を素材とする管弦楽曲」作曲募集〈特賞〉賞状
《筑後地方の俗楽によるコンポジション》(1964)で
第4回 TBS賞「日本を素材とする管弦楽曲」作曲募集〈特賞〉を受賞。



 そんなようなことでコンクールで賞も貰ったことだし、改めて自分は音楽でどうやって生きていこうかと考えたんですけど、だいたい作曲家というのは、流行歌を書くか、劇伴を書くか、もしくは学校の先生をやるかの3つぐらいしか食べていくだけの収入を得る道がないんですよ。
 僕は劇伴や流行歌の世界で生きていきたいとはあまり思わなかったんです。
 もちろん劇伴や流行歌で立派な仕事をされている方々もいらっしゃるわけですけど、僕はそういうようなことで最終的に教員になって飯を食っていこうと思ったんですね。

 それでプリングスハイム先生に相談したら「ああ、それじゃあ、自分は武蔵野音楽大学に勤めているから、助手みたいなかたちで手伝ってくれないか」と言われて。それで僕も武蔵野音楽大学に勤めることになったんです。それから7年間ぐらいですかねえ、プリングスハイム先生のアシスタントを一般の授業も受け持ちながらやってたんですよね。

 でも、最初の頃は教員をやりつつも時々は内緒で劇伴の仕事をしたこともありました(笑)。なにしろ実入りが良い仕事でしたからね。



―――楽壇デビューされた1960年代といいますと、クラシック音楽の作曲の潮流はいわゆる「前衛音楽」が覇権を握り、その一方でそれらに対する危機感から生まれた「日本を素材とする管弦楽曲」という作風について具体的方向づけのある作曲コンクール「TBS賞」が行われました。そのような時代背景の中で御自身の作品のスタイルについて意識されたことはありますか。


 日本では戦後になると、戦前に導入されたヨーロッパの音楽の潮流がガラッと変わって、シェーンベルグ、ベルク、ウェーベルン等の音楽にみんな仰天するわけですよね。
 そうなると日本人の悪い癖で、ヨーロッパの新しい音楽に追随して作曲をする人達が出てくる。追随したほうが評価されやすい土壌があるんですね(笑)。

 今考えてみると「前衛」って何かよくわからないのだけれど、一方で「俺達には民族の音楽があるじゃないか、そういったものを土台にした“魂”が。そういうことをないがしろにしたら自分達の立ち位置がわからなくなるよ」という考えで活動した人達もいる。例えば清瀬保二、伊福部昭さんとかですね。作品でいうとプリングスハイムに習った安部幸明、高田三郎、平井康三郎さん達もそういう傾向のものを書かれていますね。

 また同時にそれは僕が作曲を志した時からの姿勢でもあるんですよ。日本人なんだから日本人しか書けない音楽を書くべきだろうと。
 というのは、ヨーロッパ音楽の権威がものすごく日本を圧迫していて、もうヨーロッパに行かないと仕上がらないんだとか、アメリカに行かなきゃ仕上がらないんだという構図が嫌いだったんですね。

 「地域の音楽は如何にあるべきか」これは作曲をはじめた頃から終始一貫、僕が自分自身に課してきたことです。

CD「田村徹 作品集」
CD「田村徹 作品集」(コジマ録音・LMCD-1895/6)
《漂泊I》《わらべピアノ唄1》《わらべピアノ唄2》《東洲斎写楽》《古代紀行》
《若山牧水の詩による歌曲集》《ピアノによる風土記》《柳川風俗詩より》を収録。




 そういう意味で僕も参加した「作曲五人会」は、“日本を素材とする管弦楽曲”を募集する「TBS賞」受賞者、つまりは「日本独自の音楽作品を書いていこう」というひとつの前提を共有する同志の集まりなんですね。
 「作曲五人会」に参加したきっかけは、それまで参加されていた住友淳治さんが会をお辞めになることを希望されて、それじゃあ「五人会」なのに作曲家が4人になっちゃうっていうんで、住友さんから僕のところに自分のかわりに会に入らないかという連絡がきたんですよ。それで第4回「作曲五人展」からメンバーに加わったんです。

第6回「作曲五人展」プログラムより
第6回「作曲五人展」プログラムより



―――そこで山内正さんに初めてお会いになられたわけですね。


 そうです。でもそれまで山内さんのお名前はまったく知らないわけじゃなかった。当時、山内さんの『ザ・ガードマン』の音楽はとにかく有名でしたからね。「ラ、ドーラソミー、ラ、ドーラミー」ってやつですよ(笑)。あれは当時の劇伴では大変モダンでしたね。

 「作曲五人会」の中で僕は最年少で、逆に山内さんは最年長だったんです。そういうこともあってか、山内さんは大人だなっていう感じと、それから豪放磊落な方という印象が強いですね。
 僕は山内さんと音楽の理念というか哲学的な話はしたことがないんですよ。僕はそういうの嫌いじゃないんですけど。熱海に数回泊まりがけで「作曲五人会」の打ち上げを兼ねて遊びに行ったことがあるんですけど、そういう時にも作曲の難しい話はしませんでしたしね。笑顔が絶えなくて、和気あいあいとして終始温和な雰囲気をかもす方でしたね。



―――山内正さんの作品についてはどのような印象を持たれましたか。


 お人柄がよく出た作品でしたよ。「五人展」などで、ずっと聴いてきましたけど。
 前衛的な音を使って強烈なインパクトをあたえるとかそういうのではなくて、なにか日本人の原型のようなものを感じさせる作品ですね。

 山内さんはとてもお人柄の良い方だったので、たぶんたくさんの知己がおありになるんだろうとは思っていたんですけど、幸いにも今回そういう御縁が巡り巡って彼の作品がCD「山内正の純音楽」として再び世に出るというのは、一緒に活躍した者としてとても喜ばしいことだと感じています。






CD「山内正の純音楽」


作曲家 山内正 研究活動




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