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永瀬 博彦


 芳香も発しないかわりに、もちろん悪臭も立てない、目立つことより<目立たない>ということに価値のある、造りのしっかりした古い家具のような、耐久性と風格と安心とを感じさせる、そんな存在、それが池野であった。

 音大卒業後、私はそのまま大学に職員として勤務していて、作品が採り上げられたりすれば、いい気になりがちな、まだまだ青臭かった私に、「ポーカーでは、例え自分に良いカードが回ってきても、そのことを表情に出してはいけない。中にはわざと困ったような顔をする者もいるが、それもダメ。何でもないように普通にしていること。それが一番。これをポーカーフェースという」と、ユニークな例え話で、日々日常の心の有りようを教えてくれた。
 ポーカーフェース、目立たないでいる、ということは、書き手の自家撞着のようにも思えるのだが、はしたない自己顕示を嫌う池野らしい例えであり、私の胸に深く残る言葉となった。ポール・ヴァレリーは<他人に自己を知らせたいという欲望を人間の本質的な弱さである>としているが、池野はそうした意味では確かに頑健な武士であり、貴族であった。自身を、特別な存在であると考えることを恥ずかしいこととして排除する、世の孤独な先覚者、それがまさに池野なのであった。

 私が初めて聴いた作品は『エボケーション』(1974年)で、それまでの沈黙から脱して発表されたこの作品は、池野成という1931年生まれの作曲家の存在を再認識させるに充分であった。
 『エボケーション』は、あるマリンバ奏者からの依頼で、マリンバが中心に活躍する曲を頼まれたことによるのだが、しかし、コンガなど手打ちの膜質打楽器を偏愛する池野は、マリンバを中心に置かず、アンサンブルの中の1パートとして扱い、重要なパートではあるが必ずしも主人公ではない、いわゆるコンチェルト風にはしなかった。1974年に脱稿したのだが、依頼者はこの作品を無視し、演奏されることはなかった。
 そんな境遇にあったこの作品を世に送り出したのは、親友である松村禎三で、1977年2月、松村がプロデュースする「現代の音楽展・77」の一夜でそれが実現した。会場は当時、演奏会場としてよく使われていた帝国劇場の隣にあった旧 第一生命ホールで、演奏には東京音楽大学の主たる教員と学生が全面的に協力した。マリンバに岡田真理子、打楽器は有賀誠門と学生による東京音楽大学パーカッション・アンサンブル、トロンボーンが伊藤清と同じく学生による東京音楽大学トロンボーン・アンサンブルであった。プログラムの最後に演奏された『エボケーション』は、打楽器群が叩きだす強烈な律動と、その持続に理屈を通り越して会場は完全に圧倒されてしまい、演奏が終わると、現代音楽では決して起こることのない、熱烈な拍手が沸き起こった。そしてつまりこれが、池野の存在を知らしめるきっかけとなり、打楽器アンサンブルの傑作として位置付けられるようになったのである。

 その一方、自身の映画に対する姿勢は、自嘲的に語ることはあっても、肯定的に語ることは決してなかった。自己に正直で、要領よく間に合わせるといった、いわゆる世渡り上手な作曲家では全くなく、そもそも、信頼を得てアシスタントとして若いころから伊福部を助けていた池野に、映画の話が来るようになった時、伊福部からは「作品のために妻子を飢えさせるより、妻子を飢えさせないことの方が人間として上である」と言われ、「やらせていただきます」と引き受けたことによるのだが、しかし、「毒を食らわば皿まで」といった、したたかな開き直りが出来ず、映画には最後まで苦労させられたようであった。

 1974年、東京音大の作曲講師に松村らと共に就任してからは、もっぱら映画を封印し、教師として、また、先輩として学生にはよく尽くし、施し、そしてよく付き合った。学生をコーヒーや食事に誘うことも度々で、店では真っ先に伝票を掴んで会計を済ませ、学生にはもちろん、例えそれが同年代の松村など仲間内であったとしても、人に払わせることはなかった。

池野成(1974年)
池野 成(東京音大講師就任の頃1974年)


 しかし、組織やそれに伴う、社会一般の人間関係も、どうやら池野の体質には合わなかったようで、大学は伊福部の定年をきっかけに自らも退職し、後年は<人>や<外>とのしがらみをすててスペインに半ば隠棲してしまった。

 自分は本当は船乗りになりたかったのだと、話したことがあった。池野は混んだ電車の中でも決して吊り皮には掴らなかったが、その訳を、「若い頃ヨットに乗っていたのでこの程度の揺れには慣れているから」と答えた。後年はまた、ヨットを操りに海に出かけることもあったようだ。
 1999年に、マラッカ海峡で大型貨物船が海賊に襲撃されて船ごと積荷を奪われ、乗組員はゴムボートで海に放り出され、11日間の漂流の末に救出されるという、当時、日本中を驚かせた事件があったが、その時の船長が池野の実弟、池野功(こう)氏であったことを、その時の報道ニュースで知った。
 府中の自宅の書斎には、間接照明に照らされてヨットの絵が壁に掛っていた。薄暗い部屋全体が、まるでヨットの船室そのもののようであったことを思い出す。

 大船にあったかつての映画会社の倉庫から、マスターテープが発見され、2004年になって、そこから『池野成映画音楽全集』のCD制作話が起こった時、それまでの池野であったなら、とても耐えられないこととして固辞したに違いないのだが、既に死を意識したのであろう、若い友人出口氏の熱心な勧めに、最後はこれを許し、プログラムノートのためのインタビューにも丁寧に答えたのだが、夏の暑い盛りの8月、完成を見ることなく、ひっそりと、ごく内輪にしか知らされないまま、静かに逝ってしまった。

 後に、松村禎三が見事な言葉を贈っている。「潔癖からくる多くの苦しさに彼は耐えつづけた。『よかったね』解放された美しい死顔に向かってそう言いたくなった私自身に驚いている。彼は強靭な人生を完結したのだ」と。
 松村が見たその美しい顔もまた、池野のポーカーフェースであったのかも知れない。松村にも、そしてまた、近しい友人の誰にも、その内奥までは覗けなかったのではないか。目立つことより<目立たない>ことを旨として、そしてそれが、池野の生き方であり、好もしさであり、また、周りに対する気遣いでもあったのだろう。

 東京音楽大学のすぐ近くに、木々の緑に覆われて「雑司ヶ谷霊園」がある。池野家累代の墓もまた、小石川の桂林寺から改葬されてそこにある。





永瀬博彦(1974年)
学生時代の筆者(1974年)


永瀬 博彦 氏 略歴





作曲家 池野 成 研究活動


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