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10年前

(一)



 
酒席で鳴りだす携帯電話。
 25歳になったばかりの私は胸張り裂ける思いで東京へ向かった――――。



池袋の病院


 CD「池野成の映画音楽」の著作権料は直接JASRAC本社に出向いて支払った。その帰りの電車で私は眠りこけ、降りるべき駅を乗り過ごしてしまった。気が付けば次の停車駅は池袋。池袋には池野先生が入院している病院があり、昨日お見舞いに伺ったばかり。それでも、ふと思い立ちもう一度病院に行くことにした。
 8月の6日ともなると暑さは厳しく、途中見つけたうどん屋で冷たい「サラダうどん」を食べたと記憶している。

「少なくとも、支払った分だけは売れるように祈ってますよ」

 6人病床の入り口右手前から2番目のベッド。著作権料の金額を聞いた池野先生はそうおっしゃった。
 映画音楽のCDを制作している最中ということもあり、映画『夜の蝶』の話題になる。『夜の蝶』の原作モデルは、実在した銀座のバー「おそめ」と「エスポワール」。映画の撮影に入る直前、スタッフ全員で「おそめ」へ飲みに行こうということになり、その時は池野先生も参加したという。これは初めて聞く話だった。
 その後、どういう流れでそうなったのか、ここでは名前が出せないぐらい現在御活躍されている作曲家について「金管はまあまあだけど、弦がちょっと・・・」の辛口コメント。
 話をしていると、池野先生は酸素呼吸機の管を鼻から取ってしまう。どうぞ着けていてくださいと言っても「いやいや大丈夫」と外される。

 昨日訪れた時は開口一番、
「出口さん、ヤクルトっていうのは美味いもんですね」
同じ病室の人がヤクルトなるものをくれて、これが飲んでみると思いのほか美味しいと感動されていた。購入したヤクルトの中から一本こちらへ差し出し、
「でも、あんまりたくさん飲み過ぎるとお腹が緩むっていう人もいるみたいなんですよね」
二人でヤクルトを飲んでいると、右斜めのベッドを示された。
「あそこの方は私と同じで肺癌なんだそうですけど、発病してからなんと13年なんですって。しかも見た目はお元気そうなんですよね。だから、癌っていってもそう早く死ぬとは限らないみたいですよ」


帰国


 2004年1月、御夫婦で移住していたスペインで池野先生の奥様が亡くなられた。
 その頃、私は東京で一人暮らしをしており、CD制作の準備が整ったこともあって、スペインへよく国際電話をかけていた。奥様が亡くなり半月ほど後の国際電話で、池野先生は帰国しようと考えていること、そして、これから先の住居についての不安を話された。

「先生、僕、部屋が二つあるところに一人で住んでますから、なにかあったらここに二人で住めば大丈夫です。だいたい一人で暮らせるところは、二人になっても暮らしていけます!」

 私の言葉に池野先生は笑っていた。

 3月に帰国された池野先生は病を患っていた。帰国前に行ったレントゲン検査で肺に影が写っていたという。身の回りの世話というか、主に食事を作りに弟さんが群馬県から出てこられた。
 当時、私は池野先生の御宅から電車で10分ぐらいのところに住んでいた(今思えば不思議なこと)。時間があれば御宅にお邪魔し、弟さんが一時、群馬に戻られる時には代わりに泊まり込んで食事を用意した。
 この時、私は池野先生と最も濃密な時間を過ごす。
 一緒に音楽を聴き、料理を作り、洗濯物を干し、焼き肉屋へ行き、ラーメン屋にも行った。そして、とにかく色々なお話を伺った。それらすべてを書き出せば本が一冊出来てしまう。

 そうそう、一緒に映画音楽の楽譜の整理もした。

「私がいなくなった時には出口さんが持ってって整理してください」

そうおっしゃってくださった。

 フランスパンのトースト(お決まりの朝食)を食べながら、小杉太一郎さんのお話もされていた。

「今でも小杉さんの夢をみるんです。いつも『やっぱり小杉さん生きてるよ』って目が覚めるんですよ。まあ小杉さんに会えると思ったら死ぬのもそう恐くないですね」

 5月に入るとひどいめまいが池野先生を襲った――――。




「10年前」(一)/(二)



池野成 没後10年 Salida企画

池野成 研究活動



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