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10年前

(二)



飯田橋の病院


 めまいで入院した飯田橋の病院。ここの食事が池野先生にまったく合わなかった。
 池野先生は口に合わないと思ったものはいっさい食べない。見事なぐらい食べない。唯一、もうお腹がすいて我慢できないとなった時に死ぬほど我慢してほんの少し食べるという程度。これでは体が完全にダメになってしまう。
 急いでお見舞いに行った。お寿司(特上)、豚カツ弁当(特上)、チーズ(巨大なブリーサンベノワ)を持って――――。

 差し入れを見た池野先生は欣喜雀躍された。
 病院に着いたのはちょうど昼食の時間帯で案の定、食事にはまったく手を付けていない。ベットの周りのカーテンを完全に閉め、外から見えないようにする。お寿司を池野先生へ渡し、豚カツとチーズを冷蔵庫へ。
 砂漠でアオシスを見つけたような勢いでお寿司を食べる池野先生。その横で、私が病院から出た食事をきれいにたいらげた。

「あの時は本当に助かりました」

退院後しきりに感謝された。


再び池袋の病院


「ここの病院の食事は食べられるんです」
8月に入院した池袋の病院の食事は、けっして豪華ではないが、手作りの味がするとのことで奇跡的に池野先生の口に合った。ここの食事がもし口に合わなかったらどうなっていただろうと今でも時々思う。

 私はちょうど一週間後の13日がお盆なので、この日に帰省すること、あと、どうでもいいことながら13日は自分の誕生日であることを伝えた。
「お盆に故郷に帰るっていうのは、日本人らしいやさしい風習ですよね。これからも無くならないでほしいと思うんです。出口さん、お幾つになるんですか?ああ、ちょうど25歳」
そのうち池野先生は酸素呼吸機の管を自分で鼻に取り付け横になられた。お疲れになったのかもしれない。そろそろご無礼しよう。

「出口さん、こことは違う病棟に不思議な唄をうたうお婆さんがいるんですよ」

 突然、予期せぬことを池野先生がおっしゃった。

「おそらく子守唄みたいなものだと思うんですけどね。言葉も何を言っているのかよくわからないんです。ただ、『セーーンーーセーーーヤーーーーーーーーー』って最後グリッサンドかけて下降していくんですよ。なんとも不思議な唄で気になって気になって。もともとの唄がそうなっているのか、たまたま唄い方でそう聴こえるのか、明日そのお婆さんに詳しく聞いてみようと思うんです」

 帰国してから池野先生は、自分がスペインへ移住したのは「精神的亡命」であり、同時に音楽をやめようと真剣に考えていたと打ち明けられた。しかし、謎の子守唄をうたうお婆さんの話をするその姿を見ながら――やっぱり池野先生は音楽家だ――と私は確信した。

 ふいにベットを仕切っているカーテンが開かれた。池野先生を担当しているドクターが様子を見にこられたのだった。
 今まで座っていたベット横のイスから立ち上がり、移動しようとすると突然池野先生が私の背中を強く押した。「話を聞くな」という強さだった。
 いったん病室を出て10分ほど待っていると、ドクターは別の病室へ向かった。

 もう一度ベットへご挨拶に伺う。池野先生は手を差し出し、

「あなたが『僕と一緒に住もう』って言ってくれたこと感謝してますよ。ありがとう」

と握手をしながらおっしゃった。一瞬、何のことかわからなかった。ほどなく池野先生が帰国される直前に私が国際電話でしゃべったことだと思い至った。

 池野先生は酸素呼吸機を取り付け横になる。私は病室を出た。



――――それが最後だった。




 池野先生に会えると思えば、死ぬのもそう恐くはない。
 最後にそう思えるよう、ヤクルトでお腹の調子を整え天寿をまっとうしよう。
 


出口 寛泰



作曲家 池野成

作曲家 池野 成




「10年前」(一)/(二)



池野成 没後10年 Salida企画

池野成 研究活動



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