1914年、北海道釧路市に生まれる。
伊福部家は、因幡国の古代豪族で、後に因幡国一宮 宇倍神社の神官を代々務めた。
父親の代で北海道に移り、同地で父親は警察官吏を務めた後、音更村村長に就任。音更村にはアイヌの集落があり、村長の息子という特殊な立場から、小学生の頃よりアイヌの人
々、行事、文化に触れる。また、同時期にヴァイオリンやギターを自学自習しはじめる。
札幌第二中学校在学時、知り合った三浦淳史(後の音楽評論家)からのすすめもあり、海外から楽譜や理論書を取り寄せ、独学で作曲の勉強をはじめる。
北海道帝国大学農学部林学実科に進み、1934年に三浦と早坂文雄(後の作曲家)らと「新音楽連盟」を結成。「国際現代音楽祭1934」を主催し、エリック・サティ等の作品を日本初演する。
1935年、帝室林野管理局森林官吏となり、地方林務官として厚岸に勤務。同年催されたチェレプニン賞コンクールに初の管絃楽作品《日本狂詩曲》を応募。第一位入賞を果たし、一躍国際的声望を獲得する。しかし、ただちに音楽の道に転じる決心はつかず、以後「日曜作曲家」として作曲活動を継続していく。
1938年、《ピアノ組曲》(1933)が、ヴェネツィア国際現代音楽祭に入選。
1940年、母校の北海道帝国大学演習林事務所に嘱託として勤務。
1943年、《交響譚詩》が日本ビクター主催第二回管絃楽曲懸賞に第一位入選。
1945年、総木製飛行機の開発に携わる戦時科学研究員として、宮内省帝室林野局林業試験場に勤務する。
1946年、作曲への転身を決意し、北海道から日光に移る。折良く届いた依頼に応じ、東京音楽学校(現・東京藝術大学)作曲科講師を1953年まで務める。
1947年、東京都世田谷区に転居。映画『銀嶺の果て』を皮切りに映画音楽を手掛け、優に300本を越える幅広いジャンルの作品に楽曲を提供した。この分野では、1956年に映画『ビルマの竪琴』、『鬼火』、『真昼の暗黒』の仕事で、第11回毎日映画コンクール音楽賞を受賞している。
1974年、東京音楽大学作曲科教授に着任。1976年より、同大学学長を1987年まで務める。また、同大学民族音楽研究所の開設に携わり、所長を務めた。
1980年に紫綬褒章、1987年に勲三等瑞宝章を受章。2003年、文化功労者に顕彰される。
生涯を通じ、管絃楽曲、舞踊曲、歌曲、室内楽曲、器楽曲など、多くの分野にわたる純音楽作品を発表した。
著書に、豊富な分析データに裏付けされた詳細な記述と実用性の高さで類書を圧倒する理論的大著『管絃楽法』、啓蒙書『音楽入門』がある。
公私にわたり多くの作曲家を育て、初期の教え子に芥川也寸志、池野成、石井眞木、今井重幸、奥村一、小杉太一郎、永冨正之、原田甫、松村禎三、眞鍋理一郎、黛敏郎、三木稔
、矢代秋雄、山内正、等がいる。
(記・Salida)
【「伊福部昭の純音楽」収録内容】
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