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幻の東京五輪選手 小杉太一郎



 1959(昭和34)年のある日、作曲家 小杉太一郎は散弾銃を購入する。

 父親が鉄砲を買ってきたことに驚く息子、隆一郎に
「絶対これに触れてはならぬ!」
 太一郎は懇々と叩き込こんだ。
 仕事部屋に鍵のかかるロッカーを設え、以後そこで散弾銃を保管した。

 時は日本映画黄金時代。当時、映画界ではクレー射撃がとても流行しており、東京近郊にも射撃場がたくさん存在した。そのような中、太一郎は映画関係者に誘われてクレー射撃を体験したものと思われる。太一郎はクレー射撃にのめり込み、銃はその後4、5丁に増えていった。

馬橋国際射撃場にて

馬橋国際射撃場にて



 空中を移動する“クレー”と呼ばれる素焼きの皿を散弾銃で撃ち壊していくスポーツ競技の「クレー射撃」は、射台の数や位置、クレーの枚数や飛行方向で様々な種目が存在する。

 その中でも代表的なものが、最大6人の射手が横一線に配置された5箇所の射台(6人目の射手は1番射台の後ろで順番を待つ)を順に移動し、射手の前方15 mから遠方に向けて右、ストレート、左の飛行方向へランダムに放出されるクレーを撃破する「トラップ」。
 そして、半円状に並ぶ7つの射台と、その中心にある射台の計8つの射台を射手が順に移動し、左側と右側のクレー投射機から常に一定の方向で放出されるクレーを撃つ「スキート」である。

八王子射撃場にて

八王子射撃場にて



 太一郎は「トラップ」がすこぶる上手かった。
 クレーは上手な射手が撃つと欠片にならず粉微塵になるため、あたかもパッと煙になって消えてしまったかのように見える。太一郎の撃破後はそうなることが多かった。
 隆一郎が八王子の御殿山にある「八王子射撃場」へ一緒に行った時も6人の射手の中で、子ども心に見ても太一郎が一番上手かったという。

 やがて太一郎は、三船敏郎、三橋達也をはじめとする映画人で構成された「レッドベアーガンクラブ」に所属し、芸能人達とも競技を競い合うようになる。

昭和40年第21回レッドベアーガンクラブ総合優勝トロフィー

昭和40年第21回レッドベアーガンクラブでは小杉太一郎が優勝を果たす。



 そして、その腕前を見込まれた太一郎は、周囲のすすめから1964(昭和39)年開催「東京オリンピック」でのクレー射撃選手の選抜大会に出場。結果、東京都の代表を決める予選において好成績で上位となり、最終選考会に出場する権利を得る。

 しかし、劇伴音楽の作曲というスケジュールが不確かな自分の仕事と折り合いをつけ、オリンピックへ出場するのは現実的に難しいという判断から最終選考会への出場は見送られたのであった。

 結果的にオリンピック出場はならなかったが、太一郎の技量はそれほどのものだったのである。

隆一郎と共に所沢射撃場の食堂にて。

隆一郎と共に所沢射撃場の食堂にて。






作曲家 小杉太一郎 研究活動


CD「小杉太一郎の純音楽」


CD「小杉太一郎の純音楽U」






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