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山内美郷さん

山内美郷さん


 俳優 山内明氏 ご息女でいらっしゃり、作曲家 山内正は叔父にあたられるエッセイストの山内美郷さん。
 この度、CD「山内正の純音楽」制作に寄せて御寄稿くださいました。

【CD「小杉太一郎の純音楽」報道記事】


タータと呼ばれたひと


山内美郷



 山内正は、私の叔父。正確に言うならば父の二番目の弟です。

 東京大空襲で焼け出された父の家族は、当時父が松竹専属の映画俳優だったことから、大船撮影所に近い逗子に家を構えました。そして母が嫁いできて私が生まれました。
 この家には両親と祖父母の他に、父の二人の弟と妹も一緒に暮らしていました。叔父たちが寝起きしていた離れには、若い叔父たちの友だちが入れ替わり立ち替わり何人も一緒に暮らしていました。その若者たちがやがて日本の映画界の重鎮になろうとは、知るよしもなく、私は彼等のあぐらからあぐらに渡されながら育ちました。私が生まれたとき、父が選んだ三つの名前から、今の私の名前を投票で選んでくれたのもこの若者たちでした。
 この若者たちは全員、山内正をタータと呼んでいました。赤ん坊の私が「タダシ」と言えずに「タータ」と呼んだのが始まりです。タータは父の兄弟の中で一番体格が大きく、祖父に似て、髪が濃く、1本の虫歯もない良い歯をしていました。硬いおせんべいがあると、よちよち歩きの私は、必ずタータの所に持っていったと言うのが祖母の一つ話でした。

 やがて、我が家は父の仕事の都合で東京の世田谷に引っ越しました。当時まだ独身だったタータは、この家で作曲家を目指して、日夜勉強していました。体が弱かった私は、よく高熱を出して学校を休みました。熱でだるい体を持てあまし、ベットの上で寝返りを繰り返していると、下の部屋から、ポロン、ポロンとタータが弾くピアノの音が聞こえました。隣近所を気遣うように、遠慮がちに、イメージの旋律を探すように静かにポロン、ポロンと。

 そんなタータに、辛い過去があったことを知ったのは、逗子の家の茶の間にいつも転がっていた青いビロードの、空豆形のバイブレーターについて、父にたずねたときのことでした。タータは、戦争中に何気ない動作で左腕を傷めてしまったと。
「傷めなければ、今頃、正は一流のヴァイオリニストだった」
と父は言い切りました。バイブレーターはタータの腕が少しでも良くなるようにと、父が買ってきたものだったのです。その話を聞いたとき私は、当時一緒に暮らしていた若者たちが、「ヤマノウチ」でもなく「タダシ」でもなく、「タータ」と呼んでいたわけが、何となく分かるような気がしたのです。

 タータが権威あるコンクールで〈入賞〉を受賞したのは、私が13歳のときでした。会場には山内正をタータと呼ぶ、かつての仲間たちが集まっていました。みんなおしゃべりな人たちばかりなのに、なぜか言葉を忘れたかのように、何も言わず、タータを囲んで立っていました。それが、作曲家、山内正、誕生の瞬間でした。

 それから19年後の春、私の結婚式の日にも、かつての仲間たちが勢揃いしてくれました。気恥ずかしい音楽にのって、披露宴の会場に入場して、すぐに私は、髪に白いものが混じるようになった彼等を見つけました。その中にタータの顔もありました。タータは拍手をしてくれていました。そして、それが私が見たタータの最後の姿でした。

 その年の暮、かつての仲間たちは、棺に横たわるタータのまわりを取り囲み、タータ、タータと呼びかけていました。
 でもタータは、知らん顔してただ横たわっていました。



(山内明・長女)






CD「山内正の純音楽」収録作品


CD「山内正の純音楽」


作曲家 山内正 研究活動




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