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ompany【 作曲家 池野成 考 】




片山 杜秀 インタビュー(3)




「どういう音楽を書けばいいのか分からない」


 そういえば、池野先生とゆっくりお話ししたことは、埼玉でとか、スペインでとか、本当に数えるほどしかないのですけれども、そんなおりに先生から出てくるセリフというのは、あの音がいい悪いというのが多くて、つまり瞬間瞬間の楽器の音色、響き方、響かせ方の話題になると、高揚なさるのですね。しかしメロディとか、普通の人が音楽というと関心を持ちそうな、時間的にのびて起伏のある音楽のヨコの造作についての話はあんまり出てこない。たとえばストラヴィンスキーの《春の祭典》やラヴェルの《ダフニスとクロエ》あたり、池野先生のお好きな曲の話になっても、あそこの音がいい、うまい、素晴らしいということばっかし。タテの音の積み方のことばかりで、ヨコの話題にならない。それで突然、いったいどういう音楽を書けばいいのか分からない、なんて、どこまでまじめかよく分からないことを仰る。それは、自分はタテのことばかり考えているだけで音楽家として楽しいし大変なのであって、ヨコに延ばすことを考えるのは自分にとってたやすくはなく、20分とか30分とヨコにひっぱってシンフォニーでも書かないと音楽家らしくないというんなら、自分は音楽を書けなくても仕方ないんだ、といったおつもりの言葉なんだろうと、勝手に解釈しています。全然違うよ、と、彼岸から怒っておられるかもしれませんが。


暗く厚く地の底から強靭な生命力を持ってこみ上げてくるような


 けっきょく池野先生がいちばん書きたかったものというのは、瞬間瞬間の、音のヴォリュームだと思うんですよ。それはまさに吉村公三郎、川島雄三、山本薩夫、増村保造監督の映画音楽で実現されているような種類の、暗く厚く地の底から強靱な生命力を持ってこみ上げてくるような、あのヴォリュームです。そしてあれだけ音色を極めていって、ああいうヴォリュームのある響きに到達したっていうことは、それだけでもう大家の証明のように、わたくしなんかは思っちゃいますね。画家だったらゴッホの色とかあるでしょう。絵具を厚塗りにして作る、その画家ならではの量感と色調。それに相当するものを池野成はもの凄くしっかりとつかんでいたと思います。そしてそういう作曲家はそんじょそこらに居るものじゃない。オリジナリティも何もない類型的な薄味のタテを臆面もなく書き殴りながら、とにかく時間的に長いものを作って、大家でございって、顔をしている作曲家が、この世界に、この日本に、いかに多いことか。

 いやいや、話を戻しますと、池野先生の場合は、元々垂直的な響きにばかり発想がゆくから、ある音色とか音圧とか、短い中でどういうヴォリュームを作るかってことにはこだわっても、その響きがいろんな形で続いて変わっていって、30分、40分の音楽というものは、やっぱり池野先生の音楽の発想としてあんまり無かったんじゃないかという気がするのです。別の言い方をすると、緻密に精密に驚くべき職人仕事で常に満足のゆく濃密なタテを作っていこうとする池野先生のやりかたで、水も漏らさぬよう常にタテを充溢させながら、ヨコに何十分か考えるとなると、人間業を超えてくるというかなあ。たとえば、作曲家のタイプはだいぶ違うけれど、ある意味、同種の完全主義者であるウェーベルンは、生涯かかって自分で認められる作品と呼べるものは、どれも極端に短いものばかり、4時間分くらいしか書けなかったでしょう。それと似たものを感じるなあ。

 ともかく池野先生のオリジナリティはしつこいようですがタテにあって、それをヨコにどうしても長く展開していかなくてはいけないときは、たとえばアフリカの音楽、ラテン音楽、インドの音楽、チベットの仏教音楽とかの民族音楽のモデルをもってきたりするのですね。《エヴォケイション》でも《ラプソディア・コンチェルタンテ》でも、そういうことでしょう。ストラヴィンスキーや黛敏郎の音楽でもけっこう同様じゃないかと思うんですけど、ヨコに引っ張っていくためのある雛形なみたいなものをどこかから借りてきて、そこに自分のオリジナリティのある瞬間の響きや短いパターンを乗せていく感じでしょう。

 そういう意味で、このCD(「池野成の映画音楽」)を宣伝するために言うんじゃないですけど、池野先生にとって映画音楽というのは、ご自身は「音楽は音楽以外の何ものをも表現しないのに、ドラマを表現するために音楽を付けてはずかしい」とか「音楽を切り売りするみたいでイヤだ」とおっしゃるんだけれど、ものすごく充実した瞬間の響きを聴かせるっていうことが池野先生の作曲家として一番の持ち味だったとすれば、短い時間の中で印象づける音楽が要求される映画音楽というのは、池野先生の才能を発揮する場所としては良かったんじゃないかと思うんです。映画の仕事に食いつぶされて本当の才能を発揮できなかったというふうに考えては、あまりにつまらないし、つらいし、むなしい。池野先生の場合は、短い音楽、短い持続で表現が完結しうるタイプの作曲家だったから、むしろ映画音楽に向いてたんだと考えたいですね。


本物の謙遜は本物の才人にのみ許される


 もっとも、それじゃあ、演奏会用の作品が手薄にならざるをえなくなった分、映画音楽の仕事が高く評価されたかというと、そうではなかったのではないかと。あれだけ高水準で膨大な量をこなしているのに、毎日映画コンクールの音楽賞なんか一回も与えられていない。おかしいでしょう。川島でもヤマサツでも吉村公三郎でも、どれかの作品で、せめて一度は取ってたっていい。たとえば『しとやかな獣』にしたって、能楽囃子とゴーゴーの響きを合わせちゃうあんな発想は並大抵じゃないと思うなあ。それなのに同時代的評価が終始いまひとつだったように思われるのは、いかに世の中が人を見る目が無いかっていうことを証明しているでしょう。それから、へりくだりすぎていると、本当になめられてしまうということもありますわね。池野先生は「いやいや、私なんかは」と、いつもそこまで言わなくてもいいのにというくらいに仰って、異様なまでにどんな相手にも腰を低くして振る舞われていたけれども、あれが、自らの技術とセンスと価値観に対する絶対の自信を有しているがゆえにはじめて自然に出てくる、世にも珍しい本物の謙遜だということを、分からない人が多すぎたのではないでしょうか。

 この4枚組が遅まきながらの再評価のひとつのきっかけとなり、諸方から後続企画が現れるのを強く望んでいます。



森田吾一 池野成
映画音楽録音現場にて

写真左は“合わせの森田”の異名を持つ
スタジオ録音専門指揮者 森田吾一氏








片山 杜秀インタビュー(1)(2)/(3)




作曲家 池野 成 研究活動


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