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「コンビーフ丼」―――それは、カツ丼と同じ要領でコンビーフを割り下で調味し、鶏卵とじにした具を丼飯にのせたものだった。しかし、戦後は割り下を作ろうにも砂糖や、出汁を取る鰹節が容易に手に入らない。そのため水と醤油でコンビーフを煮て、それを勇宅で飼っていた矮鶏(チャボ)が産んだ卵(2個)でとじるというものだった。
それでも、とてつもなく星の巡り合わせがよい時には、砂糖の代わりに、当時小杉家の前に在った「三井牧場」に出入りする養蜂業者から都合してもらった蜂蜜を使い、出汁に伊豆諸島を構成する島の一つである式根島出身の親戚が送ってくれる「割りあご(飛魚の煮干し)」から取った「あご出汁」を使って作ることもあったという。
改めて戦後食糧難の時代ではあり得ない“大ごちそう”である。
「戦争が終わって、ターチャン(太一郎)の友達がうちに遊びに来ると作ってあげたんだよねえ。三木(稔)君はうちに住んでたようなものだから、よくこれを食べてねえ。池野(成)さんも食べたし、原田(甫)さんも食べたし……」
べつに尋ねたわけでもないのに「コンビーフ丼」について滔々と語る操の話を驤齪Yは聞くともなしに聞いていたが、「コンビーフ丼」は美味しかった。また食べたいと思った。
食事に反応を示すことの少ない驤齪Yからそのことを伝えられ喜んだ操は、おもむろに床下を捜索しはじめた。そして、二つの木箱を見つけ出すと、
「ああ、まだこれがあった」
と呟き、箱に打たれた釘を抜いてバリバリと開封した――――――
箱の中には、ラベルは変色し錆びだらけではあるものの、Libbyのコンビーフ60缶が綺麗に並んでいた。もう一つの箱と合わせ、兄から送られたコンビーフ120缶が、20年以上の時を経て、日の目を見たのである。
太一郎がこのコンビーフを見つけようものなら
「こんな古いものを食べるのはやめておけ!!」
と叫んだに違いない。しかし、驤齪Yはまったく気にせず、その日以来、夜食はこのコンビーフを使った「コンビーフ丼」を自分で作り食べ続けた。体調になんら異常をきたすこともなく――――――
こうして、Libbyのコンビーフ120缶は驤齪Yの高校在学中にすべて食べ尽くされたのである。
(文中敬称略)
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Salidaは、この「コンビーフ丼」の存在を後世に伝えるべく
驤齪Y氏への取材を執拗に繰り返し、その調理手順を記録。
この度のCD「小杉太一郎の純音楽」文化庁芸術祭参加を記念して、
「コンビーフ丼 完全レシピ」世界初公開の運びに至った次第です。
「コンビーフ丼」話譚(1)/(2)
小杉太一郎 研究活動