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ompany【 作曲家 池野 成 考 】



我が師 池野 成先生
小倉 啓介 インタビュー




第12回
藝大2~3年生





 大学1年生の提出作品でピアノとトロンボーンのデュエットを出したことをきっかけに、トロンボーンの大御所である伊藤清先生から委嘱をいただいたんですけど、松村禎三先生に「とにかく今おまえはオーケストラを書く時だ」って大反対されちゃったんですよね。

 私としては何とかして認めてもらいたくて「とにかく書きたいんです」と食い下がって、周りに先輩達もいたんですけど、松村先生と気まずいムードになっちゃったんですよ。
 でも結局、担任の先生だから、こっちもある程度のこと以上は言えないかなと思って、その時はかなり悔しい思いをして引き下がったんです。


 それからはもう松村先生との仲が微妙になって(笑)。


 こちらも教室に行ったり行かなかったりで、もちろん作品は持っていきませんし。そのうち“委嘱に反対された”っていう単純なこと以上に、折に触れて価値観の違いがはっきりとわかってきちゃって、教室に行った時には先生と何かとぶつかるようになりました(笑)。

 そのころにちょうど松村先生の新作が初演された時期があって、教室で話題といったら、もうその曲のことばっかりなんです。

 それで松村先生が生徒に感想を聞くわけですよね。新作の。そうすると先輩達が順番に感想を述べ、やがて

 「君はどう思う?」

 私のところに来たんですよ(笑)。
 それでこっちも馬鹿だから

 「《阿知女》とか《交響曲》や《前奏曲》みたいな熱い作品が聴けると期待してたのだけど、“松村禎三”という夕日が勢いも無く沈んでいく、弱々しくはかないイメージが頭にずーっと浮かんできて、私としては非常に悲しかったです」

 って思ったことをそのまま全部言うわけですよ。子供だから。

 当然ながら、

「小倉!!出てけぇ―!!!」

 そんなことばっかりやってました(笑)。


 そうかと思うとあるときは朝の7時頃、急に自宅に電話が掛かってきて

「おまえのこと考えてたらいろいろとムカムカしてきて、ゆうべ作曲しようと思ってた《チェロ協奏曲》が一音符も書けなかったー!!」

 っていきなり始まっちゃって(笑)。


 そうしてるうちに、こんどは池野先生から

「いやー、松村くんが口を開けば小倉君の話ばっかりで、もう困った、困った」

 って電話が掛かってきたんです。

「松村くんとしては『とにかく音楽的にいろんなことを言って生意気なのはかまわない』と。でも小倉君の場合『その生意気さ加減が非常に無礼なんだ!!』って言うわけ。まあ彼もデリケートな人だからねえ……。でも話を聞いてるとね、僕も気持ちはわかるんですよ」

 って遠回しにこちらを諭すんですよ(笑)。


 こんなようなことで、大学の2年生以降は松村クラスにいるんだか、いないんだかよくわからないもうひどい弟子になっちゃったんです(笑)。


 そんな中で大学2年生の思い出というと、秋に行われる芸術祭で、作曲した《Ulurata》―Orchestraのための―(1979)という作品を、同級生集めてオーケストラつくって、自分の指揮で初演したんですよ。「Ulurata」というのは“叫び”というような意味ですね。

 芸術祭っていうと、当時は朝からずーっと奏楽堂で何かしら演奏会が行われていて、お客さんは興味のある演奏の時間帯に入れ替わり立ち替わりで聴きに来るわけです。そのスケジュールを決める時に「何時から何時まで使わせて欲しい」と申請して、幸い演奏出来る時間が確保出来たんですね。


藝術祭での小倉氏
芸術祭での小倉氏



 そして、2年生でも提出作品を出さなくちゃいけないわけですけど、それがストリング・カルテットなんですよ。でもカルテットなんて書きたくもなくて(笑)。幸い演奏審査ではなくて譜面審査だけだったんですけど、どうやって書かないで済むようにしようかと考えて……。結局あれどうやって逃げたのか……。書いた覚えも無いんですよね。だけど気が付いたら3年生になってました(笑)。


 3年生で覚えているのは、「管弦楽法」の授業で藝大のオーケストラを使って自分が書いた管弦楽作品の断片を試演出来るっていうチャンスがあったんですよ。その時は池野先生と黛敏郎先生がコンビで「管弦楽法」の授業を担当されていましたね。

 即座に、こりゃ良いと思って2年生の時に書いた《Ulurata》のオーケストレーションを手直しして提出したんです。

 藝大の職員オーケストラっていうのは学生の作品を演奏した後、プレイヤーでプロの演奏家として大先輩達が「おまえ、こういうこと書くな!!」とか「こうやって書かれるとこの楽器の奏者はこういうふうに演奏しちゃうぞ!」って苦情を言って下さるんですよ(笑)。大変貴重なアドヴァイスをしてくれるわけです。

 それで私の作品も音出してもらって、ああ、なるほどこう書くとこうなるんだな、と感じていたんですけど、演奏終わってもプレイヤーが何も言ってこないんですよね。そしたら池野先生がすっ飛んで来て

「小倉君、とにかくオーケストラのメンバーが拍手してるよ」

 と言われて。

「これで随分手応えあったでしょう」

 池野先生が喜んでくださっていたことを記憶してますね。


 3年生から4年生に上がる時にも提出作品を書かなくちゃいけないんですけど、それがオーケストラ作品と、あと歌曲なんですよ。

 オーケストラは譜面審査だったんで《Ulurata》を提出して事なきを得たんです。だけど歌曲が問題で(笑)。当時から私は日本語の詩に曲を付けるのは難しいと思ってて、どうしても書きたくなかったんですよ。
 さらに悪いことには歌曲は演奏審査なんですね。提出すると演奏されて誰の耳にも聴こえちゃう。これは嫌だなと思って(笑)。

 それでどうしたかというと、作品の締め切り日を過ぎてから出すと「再提出」という扱いになって演奏審査を免れるんですよ。ああ、これが良いやと(笑)。

 詩はどこからか草野心平のものを見つけてきたんです。
 それからうちにあったでっかいダーツボードのそれぞれのエリアに、ここは「ミ」とか「ソ♯」というように割り振って、適当に矢を投げて刺さったところで音を決めて、超適当に音列を作り、譜面づらだけ整えて、これこそエクリテュールの手品だなと、バーッと40ページぐらい書いて出したら難なく通っちゃったんですよ(笑)。

 1年生のピアノとトロンボーンのデュエットなんかあれだけ心血そそいで書いたのにね、何なんだこりゃって言わせてもらえば譜面づらだけ整えれば通っちゃうのかと、単位を取るのが馬鹿馬鹿しくなっちゃいましたね(笑)。
 まぁ、最低の成績でしたけど。

 そんなことばっかりやってました(笑)。

 とは言え、後になって、仕事場などで松村先生とお会いする機会も数多くあり、改めて先生にお世話になったんですね。

 なぜあの頃あんなに生意気で、いつも先生に怒られていたのか、どれだけ先生に愛されていたのかと、今となっては改めて思いますけど、当時はとにかく無我夢中でした。










第13回 破門・指揮への回帰


我が師 池野 成先生 小倉 啓介 インタビュー



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