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ompany【 作曲家 池野 成 考 】



我が師 池野 成先生
小倉 啓介 インタビュー




第7回
 藝大付属高校と
《Berdoa punja Selatan Pulau》





 それでいよいよ藝大付属高校の生活が始まったんですね。

 藝大付属高校は、今だと藝大の隣り、つまりは上野公園内にありますが、当時はお茶の水にあったんですよ。駿台の予備校やアテネ・フランセに挟まれた、かつて三楽病院だった恐ろしく古い建物を改装して使っていたんです。
 1学年1クラスで総勢30名余り、そのうち男子がピアノ、ヴァイオリン2名、ヴィオラ、チェロ、フルート、クラリネット、ホルン、トロンボーン、打楽器、それに作曲である私を含めての11名でした。

 高校に入学して先ず感じたのは、

―――こんなすごい奴らが現実にいたのか!!

ということですね。とにかくこれはとてもついて行けない、と思わず引いてしまうような特殊な能力、才能を持った人達ばかりが周りにいるんですよ。

 例えば、ピアノ曲、室内楽、オーケストラの何であろうが、たった一度聴いただけなのに、ピアノで正確に再現するなんていうのは当たり前なんです。どんな楽曲でも、聴いた直後にそれをワルツに、ノクターンに、ショパン風に、モーツァルト風にという具合にアレンジして弾いてしまう人。管楽器専攻の筈なのに、モーリス・ラヴェルの《道化師の朝の歌》という手強い曲や、ピアノコンチェルトなどをピアノでスラスラと弾いて聴かせてくれる先輩。20分の昼休みにバルトークばりの無調性の弦楽クァルテットの一楽章をピアノも何も使わずに数十ページ書き上げてしまう人。作曲科の先輩達は、1日に1フーガ書き上げるのなんて日常茶飯事ですしね。

 正直なところ、

―――こんな超能力を持った人達が身近にいて、しかもその人達がこれからずっとライバルなのか・・・。

と心の中では動揺と焦りの嵐でした。

 これを乗り越えるには、もうとにかくやるしかないと、学校から帰ってレッスンの課題などの日課を終えた後は、夜中でも消音機で音量を消してピアノにひたすら向かいました。これは結局高校時代3年間ずっと続きましたね。

 そういうこともあって、周囲にそう簡単には追いつけないものの、夏休み頃には自分なりに周りの人達となんとか平静を保って会話が出来るくらいまでになったんです。
 もともと中学の時からピアノの「初見」に関しては誰にも負けない、みたいな自信は持ってまして、あとラヴェルに狂ってピアノ曲に限らず、オーケストラやクァルテット、コンチェルト、歌曲などほとんどの曲をピアノで弾き倒していたので、ラヴェルを弾いているときと初見の時だけは高校でも周囲をまったく気にしなくてすみました。

 それから、学校での同級生達との会話はというと、当然といえば当然なんですけど一日中「音楽」の話題で、もうとにかくジャンルや時代を問わずにみんないろんな曲のことをよく知っているんです。

「あの作曲家のシンフォニー3楽章のあのハーモニーはどう思う?」
とか、
「○○は、晩年になってこういう傾向になってきたよね」

と言われても最初は内心、誰の何の曲の事だかさっぱりわからなくて(笑)。

 それで困っていたんですけど、ある時、上野の東京文化会館に音楽資料室があるということを知りまして、それからはそこに入り浸って同級生達との会話の中に出てきた、知らない楽曲や用語、作曲家などを片っ端から聴いたり調べたりしました。
 特に夏休みは、朝から東京文化会館に直行して、一日そこに籠もってレコードを聴き、譜面を読み、夜になって家に帰るとコピーしてきた部分をピアノで弾いてみる、というような毎日でしたね。


 そんな中でも、引き続き池野先生のお宅には3日と開けずに遊びに行っていました。最近聴いた曲やすごい能力を持っている同級生達の話、先にお話した作曲、文学などの諸芸術のことなどを深夜まで話し込んでいましたね。


藝大付属高校時代の小倉氏
藝大付属高校時代の小倉氏



 そうして3年が過ぎて高校最後の年になったんですけど、藝大付属高校には3年生になると卒業演奏会というものがあるんですよ。
 その演奏会には付属高校の生徒の腕前を見に他校からの芸大受験者がやって来ることもあって毎年大勢の人が聴きに来るんです。ですから弾く方もコンチェルト全楽章や芸大の入試課題曲とか、それなりに気合いの入ったプログラムで出演するんですね。

 私はというと演奏ではなく作曲なので、その演奏会では自分の「作品発表」があるわけです。

 その頃私は、日本人の美観に依る音楽語法を模索し始めていまして、日本の古典音楽や西洋音楽以外の、特にアジア、アフリカ、南米などの民族音楽を聴きまくっていたんですよ。その中でたまたまインドネシアのバリ島の「ケチャ」を聴いた時、とても衝撃を受けたんですね。
 池野先生とも一緒にケチャを聴いて「これ面白いですよね」と話をしたんですけど、やっぱり池野先生もケチャのリズムや躍動感、その母胎となっているガムランのチューニングの魔術などに非常に興味を持たれたんですよ。

 今でこそケチャは有名になって、それを題材にした現代音楽作品なんかもありますが、私が高校3年生だった1975年当時は、知っている人がほとんどいなくて、ケチャについて調べようと思っても資料が簡単に手に入らなかったんです。

 そんなことがあって、卒業演奏会の作品をどうしようかなと考えた時に、ピアノ5台でケチャみたいなことをやってみようとポッと思ったのですよね。その考えを池野先生に話したら

「それ、ピアノ5台で是非書いてみたらいい」

と言われて。とにかく「面白い、面白い」とおっしゃってくださったんですよ。

 なぜピアノ5台かというとケチャは基本的なリズムパターンが4つあるんですね。あとこれに指揮者の役割をさせる1台が必要だということで「ピアノが5台要るな」と単純に思ったんです(笑)。それが可能か不可能かなんてことは全く考えもせずに。

 それでまずはとにかくケチャを調べようということになったんですけど、ちょうどその頃、黛敏郎さんの『題名の無い音楽会』で「芸能山城組」という民族音楽の研究・実演をしている団体を紹介する回があって、番組の中でケチャをやっていたことを思い出したんです。
 調べてみると当時の西新宿の広場で「芸能山城組」の舞台が行われているということがわかったので、池野先生を誘って一緒に観に行ったんですよ。

 そうしたら本当にたいまつが焚かれていて、裸の男達が「チャチャチャチャチャチャチャ……」という具合にまさにケチャが行われているんです。これは面白いなと思って見ていたんですけど、その中の一人にちょっと話を聞いてみたら、

「いや、実は自分達は早稲田大学の学生なんだ」

って言うんです。
 後でわかったことですけど「芸能山城組」というのは民族音楽学者の小泉文夫さんの息が掛かっていて、山城祥二さんという方を中心に学生を募ったりして東南アジアやチベットをはじめとする世界諸民族のパフォーマンスを上演しているんですね。

 そこで事情を話して「今度、お邪魔していいですか」と言ったら「どうぞ、どうぞ」ということになったので、池野先生と一緒に五線紙のメモノートや録音機材を持って早稲田大学の練習所まで行きました。
 そしたら、あの複雑なリズムの組織や組み合わせパターンを全部黒板に書いてくださって、構成やピッチなどについても随分と詳しく教えてくれたのですよ。それをメモしたり採譜して池野先生と二人で帰ってきたんですけど、さあこれをいったいどういうふうに譜面にするか?ということですよね。

 とにかく指揮者の役割のピアノには「タンタンタンタン」と一定のリズムを刻ませて、あとの4台がそれを聞きながら各々のリズムを噛み合わせていくということを想定して色々譜面に起こして創っていったんです。
 ですけど、そのうちにやっぱり行き詰まっちゃったんですよね(笑)。果たしてこれで曲として成立するのだろうか、ということで。

 私が悶々としているのを見て、池野先生も「もう少しじっくりアイデアを寝かせてから作品に仕上げてもいいんじゃないか」とアドバイスしてくださったんですけど、実はこの時に、伊福部昭先生に御目に掛かれるチャンスがあったんですよ。

 あまりに私が苦しんでいるのを見かねて、池野先生が

「伊福部先生に御意見を伺ってみようか」

と言ってくださったんです。

 伊福部先生の純音楽作品は中学の頃から池野先生を通じて聴いていて、伊福部先生は憧れの作曲家だったので、ものすごく嬉しかったんですけど、池野先生が最後に

「伊福部先生は“もう少し考えを練って、もっと後になってから書いた方が良い”っておっしゃるかもなあ……」

とポロッと言ったんですよね(笑)。私としてはどうしても今この作品を書き上げたい、という気持ちが強くて

―――今は書かない方が良い、と言われるんだったら、あんまりお会いしたくないなあ……

と思ったもんですから(笑)、結局この時伊福部先生にお会いするのは実現しなかったんです。でもまた後でお話しますけれど、その後伊福部先生にはお会いすることになって大変お世話になりました。


 相変わらず卒業作品の筆が進まないのでしばらく苦悩していたんですけど、そしたら池野先生がケチャのレコードをどこからか仕入れてきて、私にくださったんですよね。
 現在のケチャというのは、ヒンドゥー教の神話と、古代英雄であるコーサラ国のラーマ王子に関する伝説をまとめた「ラーマーヤナ」という物語を題材にした舞踏劇の様式で演じられているわけですけど、そのレコードを聴いてみたら「ラーマーヤナ」の物語を、テンポを崩してみたり、ピッチを変えたりして、もういろんなスタイルで演奏している現地の録音だったんですね。
 ああ、まだまだこんなやり方が有るのだな、ということがその時わかって、それを足がかりに試行錯誤を重ねて、どうにか完成にこぎつけることが出来たんですよ。


 最終的にピアノ5台の他にティンパニ、キューバンティンバレスなどの打楽器奏者3人を加えた

Berdoa(ベルドア) punja(プニャ) Selatan(セラタン) Pulau(ピュラウ)-Piano5台とPercussionのための-(1975)

という今まで見たこともないような特異な譜面で15分の異色な作品が仕上がりました。作品名は“~の島”というような意味だったと思うのですけど、もう忘れちゃいましたね(笑)。


 そして、これを卒業演奏会で発表したんですが、このことが学校の中で大騒動を巻き起こして、その後の大学受験・大学生活にまで多大な影響を与えようとは夢にも思いませんでした(笑)。







第8回 伝説の異端児


我が師 池野 成先生 小倉 啓介 インタビュー



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