ompany【 作曲家 池野 成 考 】
第8回
伝説の異端児
藝大付属高校の卒業演奏会というは6月にあるんですけど、その2ヶ月ぐらい前から私の作品の練習が始まったんですね。
ただ、私の作品は、先にお話したとおりインドネシアのバリ島のケチャが発想元ですから、ケチャの基本的な4つのリズムパターンを各々演奏するピアノと、指揮者の役割を担うピアノの都合5台のピアノが練習のためには必要なんですよ。そのために、卒業演奏会が行われるホールというのが学校の3階にあったんですけど、そこへピアノを移動させてセッティングするという大騒ぎになりました。
5台のピアノの演奏は、ピアノを専攻していた後輩や同級生達にお願いしました。
それから、これは私も想定外だったんですけど、ピアノの「調律」の問題があったんですよね。学校が調律師を2人頼んでくれたんですけど、
「ピアノ5台を同時に調律するなんて、今までやったことがない!」
ということで、もう丸一日かかっての大変な作業になっちゃったんです。
あと、私の作品はピアノ5台に加えてティンパニをはじめとする打楽器が必要で、さらに作品のある部分では、普通のティンパニよりもさらに高い音域を出す「ピッコロ・ティンパニ」でないと演奏できない箇所があるんですね。
「ピッコロ・ティンパニ」なんて当時学校には無かったんですけど、ここはどうしても「ピッコロ・ティンパニ」を使いたい!!と一人で突っ張りまして(笑)、結局、特別に学校の外から借りてくれることになりました。
もうこの時点で、卒業演奏会の予算はとっくにオーバーしてるんですよね(笑)。
ですけど、当時の教頭先生がポケットマネーを出してくれたりなんかして、なんとか私の作品発表を実現させようと協力してくださったみたいなんです。その話を後から聞いた時にはとても感激しましたね。
それで練習もどうにか順調に進んで本番を迎えました。
演奏会に来ていた藝大作曲科の先輩の中には私の作品にとても興味を持ってくださった方もいて、特に当時藝大の大学院生で付属高校に教育実習に来られていたY先輩には
「君が将来どんな作曲家になるかは知らないけれども、こういう曲を思う存分に書く本質的な部分をずっと貫けば、どこまでやっても大丈夫だ。どんなことがあっても最後にこの作品のことを思い出せばなんとかなる。とにかく無茶苦茶で良い!!」
という御言葉をいただきました。褒めてくれているのか何なのかよくわからないんですけど(笑)。少なくとも共感してくれて、とにかく激励してくれましたね。
アカデミズムをぶっ壊して自分の語法を模索する―――という作曲家としての本質的な姿勢を池野先生から学んで、私なりに暖めてきた「自分流」な創作態度を曲がりなりにも初めて外に向かって吐き出したのが、この時だったわけです。
ですけど、この私の作品に対して、Y先輩のような好意的な反応というのは実際のところ少数で、学校サイドからの評価は「最低」というものでした。
当時、付属高校で作曲実技を師事していた先生には、卒業演奏会が終わって最初の授業の時に開口一番、
「あれの何がおもしろいの?」
と言われました。
さらに「“ケチャ”だか“ケケ”だか知らないけどさ」なんて言うんです。まあ当時はそのぐらいケチャのことを知っている人は少なかったわけですけど、こっちとしては
―――ケチャのこともろくに知らないで何を言ってるんだ!
と思うわけですよね。
結局、その時の先生の御主張というものを簡単にまとめると
「藝大は西洋音楽を学ぶところで、こういう訳の分からない民族音楽を題材にした正体不明の音楽を発表されては困る。民族音楽なんて音楽じゃないし、ましてや芸術でもない。芸術の音楽をやらないんだったら藝大行く意味ないよ」
ということになるんですけど、高校生の私の目から見てもその先生が御自身聴いたこともなければ興味もなかった類の音楽を題材にした作品を目の当たりにして、とても動揺されているということがよくわかりました。
悪い意味でのアカデミズム、特に藝大の様に伝統のある大学ほど保守的な意味でのプライドが色濃く残っていて、それを打ち壊すような不遜な学生は当時皆無だったんですけど、私は納得出来ない時には先生にでも平気で口答えしてましたから(笑)、この時も
「いや、そうは思いません」
と自分を正直に主張したんです。そしたらだんだんお互いエスカレートしてきて言い争いになりました。
当時私は運動不足解消を考えて時間のある時に空手をやっていて、まあそれなりにガタイが良かったんですね。それで“あんまり怒らせると恐い”とその先生が思ったんだか何だか、しばらくしたら急におとなしくなって教官室に行っちゃったんですよ。それでまた戻って来て、どうするかと思ったら
「教官室の他の先生にも聞いてみたら、みんな私と同じ意見だよ」
って言うんです。こっちはもう
―――なんて気の小さな人だ……。
と呆れ果てて、さらにムキになって思うことを全部ぶつけました。
というようなことで、簡単に言うとひと悶着起こしたわけですけど(笑)、結局、そのことが元でその先生に師事するのはこちらから辞退させていただきました。
藝大付属高校 伝説の異端児時代の小倉氏
そんなようなことで卒業演奏会は終わったんですけど、翌年の1976年3月には、いよいよ東京藝術大学の入学試験があるわけです。
藝大の入試は作曲実技の場合、一次、二次、三次試験が和声、フーガ、自由作曲となっていて、それが通ると次はソルフェージュや学科の試験になるんですね。さらにそれも合格すると最後にピアノの初見演奏能力をみる試験があって、そのまま同じ部屋で面接、口頭試問が行われるという流れなんです。
幸いなんとか実技試験はすべて通過して、最後の初見試験を受けることになりました。
会場へ入ってみると、ピアノを囲むようにして試験官の先生方が並んでいらっしゃって、譜面台には入試のために書き下ろした、無調のいかにも「現代音楽」という感じの楽譜が置いてあるんですよ。
まず数分間予見して、とにかくその曲を演奏しました。それで弾き終えるとその作品について色々と細部にわたって質問されるんです。普通だったら、当たり障りのない自分の思うところを喋れば良いんですけど、この時に私は
「入学試験用の曲、という制約のためか、いろんな音型をむりやり詰め込んである、どうにも強引にまとめた作品です」
とついつい正直に言っちゃったんですね(笑)。
そうしたら、
「・・・・・・すみませんでしたね、弾きにくい曲で。私が作りました・・・」
って、試験官の中に作曲者がいらっしゃったんですよ(笑)。
え?その試験官の先生ですか?詳しくは忘れてしまいましたが、たしかM先生か、もう一人のM先生あたりだったと思います(笑)。
さすがに
―――しまった・・・・・・。
と思ったんですけど、まあ、これはこの後の“前奏曲”にすぎませんでしたね(笑)。
試験官の先生方の中には当然のことながら当時藝大作曲科主任だったY先生がいらっしゃったんですけど、その横の席には、よりにもよって私の卒業作品のことで言い争った先生がいたんですよ。そうしたら、
「ほら、この子ですよ、あの・・・・・・」
と、卒業演奏会のことをほじくり返してきたんです。そうなるとY先生も
「君は話によると藝大の校風に合わない趣味を持っているそうだけど……」
ということになるわけですよね。
―――やっぱり来たか……。
と思いました(笑)。この話題が出てくることはある程度予想していたので、何か適当にお茶を濁してやり過ごしてしまえば良かったのかもしれないんですけど、もう実技の試験は全部合格してるわけだし、それを踏まえて自分のスタイルで何を作曲しようが自由だ!!と私は思っていたので、こちらとしてはもう何も言うことが無いわけです。
「変わった音楽的美観・主張を持った人に、この学校は向いてないんだよね……」
結局、Y先生もかつて言い争いをした先生と同様の主張をされました。
口論にはまったくならなかったんですが、非常に険悪というか気まづい雰囲気になって、最後に私は
「………ああ、そうですか……」
とだけ言って退室したんです。
結果はクラスの中で私だけが最終発表で落ちていました。
第9回 伝説の浪人生(1)
我が師 池野 成先生 小倉 啓介 インタビュー