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Salida生明慶二インタビュー


(2)

萩原哲晶・スタジオ・ミュージシャン




―――戦後はどのようなバンドに参加されたのですか。


 最初は藤家虹二っていう毎日音楽コンクールで1位取ったクラリネット奏者と組んだりしてたんだけど、そのあとに萩原哲晶さんとバンドをやったんですよね。こりゃ長かったですよ。6年ぐらい一緒にやったんです。「バンドをやった」っていってもメンバーになるためにはちゃんと厳格なテストがあって、まあ、試験受けて入るようなもんで、どういうわけだか僕が入ったんだよね。「秋満義孝クインテッド」というバンドです。

 それで内幸町にあった「Manuela」っていう当時超一流のナイトクラブに出たり、あとは「労音」(勤労者音楽協議会)のコンサートとかで演奏してましたね。その頃に演奏してたのはもっぱらヴィブラフォンです。



―――萩原哲晶さんはどのような方でしたか。


 僕にとって萩原哲晶と出会ったのは、ものすごく素晴らしいことだったですね。

 彼はすごく耳が良いからね。ずいぶん怒られもしたけれど‥‥。
 こっちが演奏してるフレーズを全部聴いていてね。休憩時間になったら五線紙に書いて「こりゃ変ですよ」ってやられるわけ(笑)。だけど、その指摘っていうのがしばらく経つと「なーるほどなぁ」と思うようなものばっかりでね。
 つまり、ちゃんと曲も書ける人でした。映画の劇伴で二管編成ぐらいのものもパッと書けちゃう人。のちに植木等さんの唄をほとんど作ってますよね。そういう人が一緒のバンドでクラリネット吹いてるんだから(笑)。

 バンドやってる頃、哲晶さんは作曲家のIさんの劇伴手伝う内職をやってたんですよ。いつも五線紙持ってて、休憩時間になると譜面を書いてる(笑)。何やってんだろうって覗いてみたら放送劇のB.G音楽で。それで「劇伴」なんていう分野があるんだなぁって思ったりしたんですよね。

 哲晶さんと一緒だったのは6年ぐらいなんだけど、実際は4年ぐらいであの人へたばっちゃってねぇ(笑)。つまり、売れちゃったわけですよ。
 ステージでバンドの仕事してるのに居眠りしちゃうわけ(笑)。仕事して半分寝てるんじゃあ、こりゃどうしようもねぇってわけで最終的に哲晶さんは独立したんだよね。それであの植木等さんの映画の劇伴をやったりしたんですよ。

 僕は哲晶さんの劇伴の録音には全部演奏で行きましたよ。僕が横にいないと哲晶さんは満足しなかったらしくて。一緒にグループ音楽やってたからか僕が横にいるとなんだか安心してましたねぇ。



―――スタジオ・ミュージシャンとして映画などの劇伴を演奏されるようになったのはいつ頃からですか。


 1950年代の初め頃からですね。

 その頃やった映画のタイトルはちょっと覚えてないけど、たとえば監督の川島雄三さんが日活で撮った映画もありましたね。あと日活だと『錆びたナイフ』(1958年/監督:舛田利雄 音楽:佐藤勝) とか『霧笛が俺を呼んでいる』(1960年/監督:山崎徳次郎 音楽:山本直純)、あのあたりは全部演奏に参加してます。

 あの頃日活といったら小杉太一郎さんでしょ。だから小杉さんにはもうそれぐらいから会ってたわけですよね。



―――演奏される楽器はやはりヴィブラフォンですか。


 ヴィブラフォンを弾くことが多かったけど、「ヴィブラフォンだけ」なんて言ってられなくて、打楽器全般を演奏しなきゃいけないわけですよ。チェレスタみたいな鍵盤からティンパニまでもう全部が守備範囲。
 そういう中で僕なんか“こいつはジャズが出来る”ってんで、わりと重宝がられたんですよ。当時の日本映画はキャバレーだとかジャズが鳴るシーンが必ず出てくるから。
 
 だから結局、劇伴にたずさわったほとんどの作曲家と仕事をしましたね。







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