―――お生まれはこちら(仙台市・見瑞寺)でいらっしゃいますか。
ここで生まれました。
―――お寺にお生まれになって、作曲家になられるというのは珍しいと思うのですが、どのように音楽に接してこられたのでしょうか。
私はね、三男なんですよ。一番上の兄は国家公務員になっちゃったもんだからここのお寺から抜けたんですね。二番目の兄はラクビ―が好きで東京に行っちゃったもんだから、結局、私がここに残った。
私はね、本当は絵描きになりたかったの。だから日本画を習っていたんです。
それとあわせて隣のお宅に住んでた熊田為宏っていうフルート奏者で仙台放送管弦楽団の指揮者なんかもやってた人に和声学や音楽の理論も習ったんですね。中学1年ぐらいの時だったかなぁ。
―――その頃ピアノは弾かれていたのですか。
ピアノはうちに無くて、オルガンが有ったからそれを弾いてました。もう勝手に自己流でね(笑)。それもやっぱり中学校の頃ですね。
「音楽」の授業っていうものはあったんだけど、ただもう歌うだけね。学校の講堂にピアノがあったからそこで授業をしてた。
その時の音楽の先生は上野の藝大のヴァイオリン科を出た人なもんだからピアノは下手くそなの(笑)。だから「片岡!おまえピアノ弾け!」って言われてね、私がいつも歌の伴奏を弾くわけ。
そしたらある時「今日は音楽の試験をする」なんてことになって、みんな順番に教科書の歌を歌って、先生は一人一人点数をつけていったのね。その間私はずーっとピアノ伴奏してるわけ。だけど途中で時間が無くなってそれで授業はおしまいになってね、それからしばらくして通信簿が配布されたの。そしたら音楽の授業の項目が「不可」になってるのね。だから先生に「試験の時にピアノの伴奏弾いたのになんで“不可”なんですか!」って文句言ったら先生が「だっておまえ歌ってねえだろ」って(笑)。ものすごくのんきなんだよなぁ。でも「たしかに伴奏をしてたんだから評価をなおす」ってことで最終的に「不可」が「優」になったのね。そんなのんびりした授業ですから。
―――ピアノを本格的に習われたのはいつ頃からなのでしょうか。
ピアノを本格的に習う...、ってことはなかったねぇ。ただ、私のばあさんの兄弟の娘っていうのが宮城学院というところのピアノの先生してたからね、そこに遊びに行った時にはピアノ弾いたり、そこの「お稽古会」っていう先生の家に集まってやる発表会の時には「良和ちゃん弾いて!」なんて言われて(笑)。みんなの前で弾かされたりしたけどね。バッハなんかをね、勝手に弾くんですよ。だから正式にピアノ習ったっていうのは受験の前ぐらいかなぁ...。
―――その頃はどのような作曲家がお好きだったのですか。
特にいないんです。だって、絵描きになるつもりだったから。中学の時も絵を描いていて、音楽はあくまで余技だったのね。
絵は中学、高校と日本画をずーっと正式に習ってましたから。もうね、直線の引き方からやるんですよ。
それから丸の描き方ね。まったく同じ太さの線で丸を描くってむずかしいですよ。描いていって最後は描きはじめたところにちゃんと戻って、そのうえどこからはじまってどこで終わったか分からないように描かなくちゃいけない。それをなんべんもやりました。
藝大を出たての美術の先生に習ってたんですよね。洋画を描く方だったんだけど、日本画の手法もやっぱりちゃんと知っていらっしゃった。
見瑞寺応接間に飾られている日本画。
―――幼い時、「親鸞聖人御正忌」がある度に雅楽《抜頭》をお聴きになっていたということですが、それは毎回楽人の方が来られて演奏されたのですか。
ええ、それはね、各寺でそれぞれ担当する楽器が決まってましてね。うちは篳篥なんですよ。それで親鸞聖人御正忌みたいな大きな法要をやる時にはお寺のみんなが集まって各々の楽器を演奏するんです。それが耳に入ってきたわけですね。
私の親父は篳篥の他に箏やったり尺八もやったし琵琶もやった。遊び人だったの私の親父は(笑)。
―――片岡先生が篳篥を演奏されることはなかったのですか。
私はね、やってないんです。あれね、温度によって音が違ってくるから火鉢を必ずそばに置いて温めながら演奏するんです。扱いがけっこうむずかしいんですよ。
―――片岡先生はまず京都の大谷大学に行かれますね。
それは私がこの寺を継ぐということになったから仏教の勉強をするために行ったんです。
当時、仙台から京都に行くとなると、朝に家を出て東京に着いたらそこでいったん泊まって、翌日また出発するっていう東京経由なんですよね。大谷大学に行ってるときには東京の田園調布にある浄行寺っていうお寺に泊まってたんです。浄行寺の息子が大谷大学で同級生だったもんだから。
この見瑞寺にも昔は東京出身の人が何人か下宿してたもんだから、他にもいろんな東京の知り合いがいたんですよ。だから浄行寺の他にも泊まる当てはけっこうあったんですよね。
京都に行ってからはすぐ清水脩先生に習ったんですよ。
私は大谷大学の合唱部に入ったんだけど、清水先生は大阪天王寺にある佛足寺というお寺の息子さんだから、そういう繋がりで大谷大学に合唱の指導に来てたのね。
習う以外にも我々で清水先生に合唱曲を委嘱したこともあるし、当時、朝日放送の『東本願寺の時間』っていう番組があって、そのテーマ音楽を清水先生が書いて、我々が男声合唱で歌って録音したこともありましたね。
―――清水脩先生には作曲に関しても習われたのですか。
書いた作品を見てもらいました。大谷大学に行ってた頃には自分なりに作曲をして器楽曲も書いていたんです。
フランソワ・バザンとかっていう人の和声の教科書を使ってレッスンもしてもらってましたけど、そういうことを清水先生に師事してたのは私一人だけだったですね。
清水先生の御自宅っていうのは東京の荻窪でしたから、大谷大学では清水先生が関西に来られた時にしか習えない。だからこっちが東京に行った時にも御自宅にうかがって習ったりしてました。
―――大谷大学時代には「聖徳太子1330年記念芸術祭」での交声曲《聖徳太子祝讃歌》(1951)〔共同作曲:芥川也寸志、清水脩、團伊玖磨〕初演に合唱で参加されていますね。《聖徳太子祝讃歌》は、現在楽譜が発見されていないのか、詳細が伝わっていない作品です。
ああ、そうですか。私が歌った合唱の楽譜はね、探せばあると思いますよ。その楽譜にはね「厩戸皇子」というタイトルと「芥川也寸志」って名前が書いて有ったと思います。芥川先生、清水先生、團先生で分担した中の芥川先生が作った歌なんですねぇ、きっと。そういえば楽譜には楽章ごとに作曲した人の名前が書いてあったように思います。指揮は芥川先生でしたね。
この《聖徳太子祝讃歌》を歌ったことが芥川先生に弟子入りをお願いしようと思ったきっかけなんです。
―――芥川先生に弟子入りのお願いをされたのはいつ頃ですか。
あれはね、まだ大谷大学に行ってるときですよ。
さっきお話したとおり仙台から京都へ行く時には途中で田園調布の浄行寺に泊まってたんですね。当時、田園調布の駅を降りて東に道路一本越すと「東玉川」になるんですけど、そこから南西の方角に教会があって、そのすぐ近くに芥川先生が住んでいらっしゃったんです。
それである時、芥川先生の家に直接うかがって「弟子にしてください」ってお願いしたんですけど、「作曲なんて教えるものじゃない」とおっしゃって。「出来た作品を見て感想を言うことぐらいしかできない」と。
でも作曲ってたしかにそうなんですよね。
結局、芥川先生は「友達でいこう」って言うのね。「お互い知らないことを意見交換しよう」と言われましたねぇ。それから芥川先生とは友達というか作曲の先輩後輩のような関係でお付き合いさせていただいて、後々仕事の面でも大変お世話になりました。
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