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TBS賞からザ・ガードマンへ〜作曲家山内正誕生物語〜小島 英人(TBSヴィンテージクラシックスエグゼクティブプロデューサー)


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《美しき誼》


 放送局と作曲家の誼(よしみ)から記す。昭和36年(1961年)初頭。TBSと山内正に運命の出逢いがあった。麗しき機宜(きぎ)だった。その両者の関係は、後に大きな放送文化の果実を生むことになる。仮令(たとい)それがアダムとイブの禁断の実であったとしても。

 当初の機縁。青年作曲家は、旭日の放送局から栄誉を受けた。詳細は、後述する。永き雌伏から輝く雄飛へ。少年期よりの営々たる精励は、報われた。鬱勃(うつぼつ)たるパトスは肯定された。山内正は、音楽家としてついに覚醒した。大いに芸術の驥足(きそく)を展(の)ばした。


《エンドロールの名前》


 4年後、昭和40年(1965年)、TBSと山内正は、放送の歴史をある意味塗り替えることになる。ドラマ「ザ・ガードマン」である。ドラマは、警備の男たちの活躍を切り口に人間の欲望を描いた。色と金である。山内正は、そのテーマや劇中音楽を作曲した。ドラマは、よくも悪くも問題作であった。どす黒い欲望。悪徳の都会。卑俗を正面から掬(すく)う。それは、製作者たちの確信に基くものだった。テレビは、所詮聖なるものではない。日本は、欲望を肯定し昭和の金色夜叉を生きていく。そんな時代の空気を山内は、作曲した。エレキのスライドギターが爪弾き擦り上げる。スネアドラムが乾いたリズムを刻む。哀歓あふれる旋律。胴慾の湖に漣(さざなみ)を立てる。テーマ音楽の傑作だった。
 こんな音楽に導かれたドラマは、全国の大人たちの密やかな愉しみとなった。金曜日夜9時半という深い時間帯。善男善女は、子供を寝かせこっそり観た。録画など無い時代である。息を凝らし情欲の虜となる。民間団体から「ワースト番組」のレッテルを貼られたが凄まじい人気であった。昭和42年、43年と年間平均視聴率が36%と群を抜いた。この二年前の「オバケのQ太郎」、前年昭和41年の「ウルトラマン」のそれをはるかに凌駕した。その内、女性視聴者が6割であった。それも興味深い。テレビは、大人の娯楽を発見した。案外明け透けな女性視聴者を知った。番組の仕舞いにも山内正の音楽が流れた。火照り、余燼燻る中、人々は、エンドロールの中に彼の名前を見た。大書された名前である。現代のテレビでは、有り得ない程の大文字(だいもんじ)である。こうして、作曲家山内正の音楽は、あの頃の日本人の集団記憶として耳底に残った。山内正の名前は、眼底深くに刻まれた。かたやTBSは、独走の黄金時代を迎える。それは、理想主義のメルヘンの時代から現実追随とデカダンスへの切り替えによって贖(あがな)われていくものだった。


《TBSの高度成長期》


 さて、昭和36年、日本は、嵐の高度成長下にあった。TBSは、この時、10歳。開局以来、躍進に継ぐ躍進を遂げていた。既に高度成長を先取りしていた。創業は、昭和26年。有楽町駅前に東京で最初の民間放送局として発足した。三大新聞と電通が産婆した日本最大の放送局「ラジオ東京」である。それまでは、首都に放送局は、NHKしかなかった。ラジオ東京は、NHKと一線を画す反骨の報道番組や独創的なクイズ番組や、自由な発想の歌番組、本格的なクラシック音楽番組などで人々の心を掴んだ。瞬く間にNHKを上回る聴取者を獲得した。さらに昭和30年には、テレビ(ラジオ東京テレビ)を開局し、兼営した。業績の向上は、目覚しかった。開局年度の売り上げ9億円は、昭和35年には、7倍強の68億円へ。営業利益は、初年度の1億円から、10億円へと増大した。社員数は、1300人を超えた。昭和35年11月、社名のラジオ東京を東京放送と変えた。略称をTBSとした。この頃、東京証券取引所に株式を上場。社長は、10年を節目に財界の大物、ゴッドファーザー足立正から有能な番頭タイプの鹿倉吉次にバトンタッチされた。ラジオ、テレビのスタジオ群を一体に収めるモダンな新局舎を起工した。昭和36年、創立10年の際に華々しく竣工することになっていた。





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CD「山内正の純音楽」制作関連情報


作曲家 山内正 研究活動




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