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・本稿は脚本家 山内 久氏が弟・正氏の急逝を受け執筆された追悼文を、久氏より御了承を得て掲載させて頂いたものです。

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正はずいぶん無念だったろう


山内 久



作曲家 山内 正
作曲家 山内 正
(撮影:小杉太一郎 1956年7月)



 まだ歩けもしない時分に、枕もとに転がっていたコマをヒョと廻したり、ポッポッポ鳩ポッポと急に歌いだして、おふくろを随分ビックリさせたと云うから生まれつき運神も音感もよかったに違いない。そのくせ物心ついてからは非常に無口でおとなしい子供だった。色が抜けるように白くて物静かで、騒がしい悪ガキの私などに較べると、不思議なくらい上品な子だった。そのくせ胃腸が丈夫なせいか意外に喰いしんぼだった。祖母が友だちのおばあさんの家へ、この器量よしの孫を自慢しに連れて行った。友だちのおばあさんはキヌカツギを茹でて歓迎してくれた。正は暫くの間黙々とキヌカツギを食べていたが、やがて食い足りて1人で遊び始めた。友だちのおばあさんはお茶を淹れ代え、キヌカツギを下げようとした。
「もう1つ!」と、正は鋭く叫んだ。
「まアこの子は、口がきけるのかえ!」
友だちのおばあさんはビックリマヂマヂ正を瞶めた。つまり、無駄口は一言もきかず、肝心要の一言だけ、自分にとって必要な時に叫ぶと云う沈着静謐な子供だった。

 大体に於て、骨相も、こういう性向も、正と長兄の明は父に似ており、私と1番末の幸子がより情動的であると云う面で母に酷似しているように私には思われる。
 その兄弟4人が両親に連れられて江の島に遊びに行った。初夏の、快晴の、思い出すだけで胸が一杯になるほど幸福な日だった。リフトなどない頃だから、グラグラ揺れる長い木の桟橋を渡り切ると、あとは頂上の展望台まで、あの長い階段を互い違いに足を出して昇ることになる。健康そのものの明は、真っ先に馳けて駈け昇って行く。足弱でゴネ屋の私は忽ち息を切り、ここらでサイダーを飲もうヨとか、ツボ焼きを喰わなきゃ歩けないとか、ゴネたいだけゴネる。体重80キロ身長160センチのオヤヂは勿論汗ダクで、やっと歩けるようになったばかりの幸子の両手を、オフクロと両側からブラさげてよろめき昇るのだが、正はその傍らを一人黙々とついて行く。口もきかないし汗もかかない。しまいにはオヤヂが心配しだして、
「おい、おかしいぞ、此奴は。これだけ歩いて全然汗をかかないのはどこかが悪いんだ。ああ、えらいことをした。灌腸器を持ってくればよかった」
灌腸器と云うのは、オヤヂの迷信の1つで、万病は灌腸に依って癒ると死ぬまで彼は確信していた。あまり灌腸器、灌腸器と云うので、しまいには傍を歩いている人たちが笑いだした。オフクロは赤面し、もうやめなさいと何度もたしなめたが、オヤヂは帰途につくまで灌腸器にこだわりつゞけた。勿論、江の島のどの店にも灌腸器は売っていなかった。

 だが、この灌腸器のオヤヂは、父親として非常に偉かった。勉強しろなどと云う愚劣なことは一言も云はなかった。ただ、私が小学校4年の頃だから正などはまだ2年のころから殆んど対等の人格として扱い、好きなことをして生きる人生が最上の人生であること、独断できないような男は男ではないこと、決して批評家になってはいけないと云うこと、役人になってもいけないということ、他人が既に云っている事ばかり云っているような人間は愚劣であり、新しい人間は新しいことを云はなければならないと云うこと、そして、恐らくあらゆる職業の中で芸術家の仕事が最も素晴らしく、自分としてはお前たちが芸術家、なかでも1人は、ぜひ、画家になって貰いたいと願っているということを繰返し、熱烈に語った。彼は放蕩者ではあったが、貧苦のどん底から芸能者として立上ってきた人間だけに、自ら信じること篤かったし、常に自負とエネルギイに満ち、雄辯とユーモアに溢れていた。お蔭で我々は旧制中学卒業の頃にはそれぞれ確固とした目標を持ち、数年後には明は俳優、私は物書き、正は音楽家として幸せな人生にスタートできたのである。




「正はずいぶん無念だったろう」(1)/(2)(3)(4)(5)



作曲家 山内 正 研究活動

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