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「TBS賞からザ・ガードマンへ〜作曲家山内正誕生物語〜」


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《民族音楽宣言》


 昭和36年(1961年)1月、TBSは、創立10周年の記念事業として管弦楽曲の懸賞募集することを発表した。以下、その発表文を引く。戦後16年目、独立を回復してから10年近くが過ぎた。民族意識の強烈な高揚がある。

「現在国内で西洋音楽の懸賞募集は、毎日新聞の音楽コンクールと文部省芸術祭の二つがあるだけだ。ややもすれば応募作品には、西欧一辺倒や植民地的な傾向が見られなくもない。真の日本的個性や情緒が希薄化し、見失われがちになるこの傾向の根本的な原因は、これまで百年の日本の洋楽が揺籃期と生長期にあり、輸入された西洋音楽の影響から抜け出すことができなかったからといえよう。
わが国の音楽が終戦を境として、ようやく独自な境地を開拓しはじめる気運が生まれたことが強く感じられる。音楽の本質ともいうべき民族の個性発揚に焦点を置き、芸術性の追求とともに民衆の支持を勝ち得られるような民族音楽の創造に力をつくすのがわれわれの義務であろう。」

 懸賞募集の前文は、こう高らかに宣言した。以下、こう続く。
「東京放送(TBS)は創立十周年を機会にして、この目的を達成するために毎年「交響絵巻日本」の総合タイトルのもとに、日本人の手になった世界に誇れる音楽作品を懸賞募集することにした。
課題:「日本を作品とする管弦楽曲」
条件:編成は、三管以内。形式は自由。演奏時間、25分前後。
審査員:池内友次郎、伊福部昭、信時潔、山根銀二、松平頼則、清瀬保二、下総皖一、諸井三郎(順不同)」

 山内正は、この広告を見た。作曲家を目指してから数年。いまだに何の実績もなかった。しかし、ついにやってきた。ひとつの大きなチャンスが。全霊を賭けて挑むのだ。皇国の興廃ならぬ、己の興廃此処にあり。奮励努力すべし。山内正は、固く心に誓った。


《時の鐘鳴れり》


 時は、昭和36年。時代の歯車が大きく動いた。日本では、前年までに政治の季節が終わった。安保闘争は、燃え果て経済の時間が始まっていた。所得倍増!いいではないか。人々は、額に汗した。安全保障をひとまず擱いて、経済優先で行こう。突っ走る時代だ。
 世界は、米ソの冷戦がさらに熱く再燃していた。ベルリンには、壁。キューバには、社会主義国家が根を下ろし、アメリカへの匕首となる。ガガーリンが地球を見下ろした。戦いは、宇宙に広がった。ソ連は、核実験を再開し、世界は、終末の悪夢にうなされるようになった。
 日本の楽壇も高度成長に入った。桜とともに二つの音楽ホールが開館した。上野の東京文化会館と新宿の厚生年金会館である。NHK交響楽団は、日比谷から東京文化会館に定期を移した。もう一方の雄、東京交響楽団は、厚生年金会館で定期をはじめた。
 同じ4月、小澤征爾が鳴り物入りで帰国した。ニューヨークフィルの副指揮者という凱旋帰国である。大阪の祝祭音楽祭では、東ドイツのゲヴァントハウス管弦楽団がやってきた。チェコからは、スメターチェクがやってきた。東西陣営は、ソフトパワーにおいても戦っていた。その間隙に同じく4月、平和主義者のパブロ・カザルスが来日を果たした。愛弟子平井丈一朗の帰国凱旋を祝う来日だった。日比谷公会堂には、皇太子の来臨を得るなど各界の名士が顔を揃えた。その深い精神性に裏付けられた音楽と人間性は、永遠の感銘を残した。

 そんな昭和36年、11月1日。新宿、厚生年金会館。夜6時。
 指揮台には、「旭日の初演将軍」と謂われた上田仁が立った。
 TBSの鹿倉吉次社長が律儀に挨拶した。東京交響楽団の演奏で東京放送管弦楽賞の最終審査が行われた。37曲の応募の内、最終審査に残ったのは、4点。
 山内正は、「陽旋法に拠る交響曲」を応募していた。
 舞台の譜面台には、その曲があった。この中から、特賞1点と入賞2点が選ばれる。

 タクトが振られた。低音弦楽器が哀しげな主題を提示する。山内正の辛い時代が響いている。そこに木管楽器が会話をはじめる。困難を乗り越えよ、逃げないで、君よ。やさしく穏やかな主題が天使のように語る。そして、逞しく太鼓がなり、木管が強く吹き上がり、俗楽の賑やかさを伴って強い主題となる。哀愁味ある調べに気韻生動するリズム。繰り返される律動。力。実は、クライスラーのベートーヴェン、ヴァイオリン協奏曲などは、実に力強かった。山内正の少年期の夢の音楽が醸されている。エネルギー。直近の師匠、伊福部昭の土俗が執拗に逞しく繰り返される。審査員席には、伊福部の顔があった。二階席中央で瞑目している山内正の周りに友人たちが集まっていた。
 結尾の激しさはどうだ。溜め込んだパトスを一気に放出させる。全奏による強奏。力の限り高まる。そして、ひとたび、治まりかけたときに、復讐のような金管が突出する。山内正のただならぬ痛恨、無念、憤怒、情念などが激しく連鎖し、爆発した。

 誰もが呆気にとられた。拍手をひとたび忘れた。懸賞募集にあった「世界に誇れる音楽」が生まれた。真新しい厚生年金会館の客席で、誰もがそう感じた。作曲家山内正が此処に確かに誕生した。







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CD「山内正の純音楽」制作関連情報


作曲家 山内正 研究活動




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