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浦田健次郎Salidaインタビュータイトル
浦田健次郎Salidaインタビュー

浦田 健次郎 氏 略歴




〈V〉



―――浦田先生は藝大大学院在学中から各大学で教鞭を執られていますね。


 武蔵野音楽大学と東京音楽大学の両方で非常勤講師をやって、大学院卒業後は東京藝術大学の非常勤講師もやりはじめて。

 だけどさすがに3つもやってられないんで、まず武蔵野音大を辞めて、東京音大も辞めようと思ってたら、ちょうど伊福部昭先生が東京音大の学長になられてね。新しい学長が来られてすぐに「私、辞めます」とは言えないから、しばらくいたんだけど、そうしてるうちに東京音大の方から辞めてくれって言ってくれて(笑)。皮肉でもなんでもなく僕は「良い機会だな」と思ったわけ。

 その時は伊福部先生が学長をされていることとはまったく関係無しに割と大規模な教職員の縮小が行なわれたんだけど、それについて学長の伊福部先生のところに文句の電話をした人が何人かいたんだね。そしたら、伊福部先生から僕のところに電話がかかってきて、

「今回はなんのお役にも立てなくて申し訳ない。皆さんからお叱りの電話をいただいています。ところが、浦田さんだけはまったくなんにも言ってこない。……ちょっと怖いんだ」

 って(笑)。

 いやいや実はこういうわけでちょうど辞めたいと思っていたんです、って説明したら

「そうですか!」

 と安心されて。

 他にも伊福部先生といったら、僕が日本交響楽振興財団から委嘱を受けたことがあって、ちょうどその時《交響曲》(1981)を書いてたんだけど、誰かが伊福部先生に「今、浦田が《交響曲》を書いてるみたいだ」って言ったらしいの。 そしたら伊福部先生が

「じゃあ、浦田さんにおやめなさいと伝えてください。なぜかというと《交響曲》なんてタイトルの作品は山ほどあるから初演された途端に埋もれちゃって二度と演奏されなくなる」

 でもその後何回か演奏されてるけどね(笑)。


作曲家 浦田健次郎(3)




―――松村禎三さんにはじめて会われたのは住友淳治さんを通じてだそうですね。

 そうそう。たぶん松村さんが住友さんに誰か手伝いを紹介してくれって頼んでたんだと思う。
 住友さんは石桁先生にも師事していたから同門ということにはなるんだけど、最初どこでどう知り合ったかはよく覚えてなくて、気が付いたら僕は住友さんとよく飲んでた(笑)。そのうち住友さんに声をかけられて、松村さんの劇伴とかの手伝いを徹夜でやってたね。まだお子さんも小さくて「風呂屋につれてってくれ」って頼まれて、一緒に銭湯行ったり(笑)。

 だから松村さんが藝大に教えにいらっしゃる前から松村さんとは面識があった。



―――池野成先生を東京藝術大学の非常勤講師に提案されたのは浦田先生だそうですね。


 僕が藝大に常勤で務めるようになって、ある時、作曲科の非常勤講師に一人欠員が出たんで、「池野先生に非常勤講師やってもらったらどうだろう」って、まず松村禎三さんに相談したんだよね。そしたら松村さんも「それはいい!」と言われて、池野先生に来ていただけることになった。

 ただ、周りはどうも松村さんが僕に池野先生を呼ぶようにさせたと勘違いしてるみたいなんだけど、それはまったく逆なんですよ。



―――池野先生は、井上謹次先生が主宰者兼指揮者を務められていた東京ブラスコンコードからの委嘱で《PRELUDE》(1987)を作曲しますが、この時に池野先生を推薦されたのも浦田先生だそうですね。

 その時の詳しい状況っていうのはあんまり記憶にないんだけど、同じ東京藝術大学で教えてたことと、僕自身、井上先生が関わられている楽団から作品を委嘱されたりしたこともあって、そういう流れになったんだと思うんだよね。






〈U〉/〈V〉/〈W〉






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